エジソンの発明から10年後。一人の男の情熱によって、日本で初めて国産電球が点灯されました。
欧米に負けない電気産業を興し、人々にゆたかな暮らしをもたらすために、彼は生涯にわたり懸命に努力を続けました。
彼が灯した白熱電球の輝きは、文明開化のシンボル。
もう一人の東芝創業者・藤岡市助の偉業に迫ります。
運命Destiny
それは米国渡航から始まった~ニューヨークのエジソン電灯会社訪問~
明治17年(1884年)、日本の電気工学の草創期を支えた若き研究者藤岡市助は、国の使節に任命されアメリカに渡った。電気時代の到来を告げる盛大な万国電気博覧会(フィラデルフィア)を視察した後、彼はニューヨークにあったエジソン電灯会社(後のGE社)を訪問しました。そこで白熱電灯をはじめとして様々な機器を見学し、米国の技術に深く感動した市助は、次の滞在地ボストンからエジソンに手紙を書きました(その下書きが現存する)。
その手紙で、白熱電球と電話機を日本のリーダー達に紹介したいので送ってくれるよう依頼し、翌年エジソンから工部大学校に36個の白熱電球と一対の電話機が届きました。米国渡航は市助による白熱電球開発への運命の機会となりました。
挑戦Challenge
白熱電球の国産化に成功 ~「白熱舎」創設~
帰国後、市助は、国や経済界へ電球の実用化・国産化を積極的に働きかけていく。
2年後の明治19年(1886年)、市助の提言により「東京電燈」(東京電力株式会社の前身)が開業。いよいよ日本でも電気時代が到来した。
同年、市助はついに大学の教職を辞し、東京電燈の技師長へ転身。
英国から電球製造機械を輸入して、白熱電球の試作を開始した。
明治23年(1890年)4月には、同じ岩国出身の三吉正一と共同で「白熱舎」を創設し、本格的な電球製造に着手する。当初、製造は日産数個。日夜苦労を重ねた末、品質も向上し、6年後には生産規模を日産280~290個まで拡大させた。
我が国初の電車を走らせる ~電車を考案設計~
市助は、「白熱舎」を設立する時期に、いくつかのプロジェクトに参画していた。 それは明治17年(1884年)の第二次アメリカ外遊の際、手に入れた電車を自ら改良するべく新たに設計。明治23年(1890年)、市助を中心としたスタッフは、「第三回内国勧業博覧会」の会場にレールを敷設。公衆を乗せた電車は、見事に動き観衆の拍手を浴びたのである。
これは、我が国最初の路面電車が走った輝かしい瞬間であった。
その後、明治40年(1907年)、市助は、中国地方で初めてとなる岩国電気軌道株式会社の取締役社長に就任し、電車運行開始に尽力。さらに現在の東海道新幹線にあたる「高速電気鉄道」のプランを練り、この分野の先覚者として挑戦しつづけた。
電気の"力"を知らしめる ~国内初のエレベーター設計~
日本初の超高層建築物として注目を集めた「凌雲閣(浅草十二階)」。
市助と門弟の三宅順祐は、この新名所の閣頂にアーク灯を点け、周囲を満月のごとく明るく照らした。そして閣内には、日本初の電動式エレベーターを設計・設置。
10人乗りのかご2基が1階から8階を昇降し、観光客を大いに喜ばせた。
使用された電動機はわずか7馬力。当時、「東京電燈」の発電局から電力を供給したが、これも我が国初の動力用電力供給となった。オープンから半年後、残念ながら行政の指導により、エレベーターの運転は差し止められてしまう。しかし、市助のこの功績が、人々の暮らしを変えていったことは言うまでもない。
誕生Advent
「マツダランプ発売」 ~「東京芝浦電気」誕生まで~
明治38年(1905年)、市助はエジソンの会社、米国ゼネラルエレクトリック社との提携を図った。明治44年(1911年)には、タングステン電球「マツダランプ」を発売。
安価で丈夫な国産電球が普及し、市助が理想とした社会が実現する。
その後、市助の情熱を継承する東京電気の技術者により二つの発明(二重コイル/内面つや消し)がもたらされ、現在の白熱電球が完成。東京電気は海外企業に負けない競争力を持つ会社へと変貌を遂げ、昭和14年(1939年)、田中久重が興した会社の流れをくむ「芝浦製作所」と合併。 遂に総合電気メーカー「東京芝浦電気」が誕生する。
日本の技術であらゆる電気製品をつくる市助のスピリットは、今に受け継がれている。