久重のものづくりコレクション

万年時計

多機能の6つの面からなる和時計の最高傑作

万年時計

江戸時代「近江大掾(おうみだいじょう)」とは職人に与えられる最高級の称号でした。高度の専門性と精巧な技によって作られたこの時計は、田中久重の代表作であり、「近江大掾」の名に恥じない傑作でした。西洋時計(定時法)と和時計(不定時法)がこの中に見事に融合されています。

この傑作には、西洋科学を積極的に取り入れる一方で、伝統的な日本文化にも適応させるという、久重のモノ作りの精神が反映されています。近年こうした久重の科学的貢献が再評価され、2004年には万年時計の解体、復元、複製する国家プロジェクトが行われました。

無尽灯

圧縮空気を利用した画期的な明るさの菜種油ランプ

無尽灯

1834年、35歳の久重は生活の拠点を大坂に移しました。そこではからくり興行のかわりに、発明品の販売をてがけます。久重の発明した「無尽灯」は圧搾空気を利用したもので、従来の室内照明(行灯や蝋燭)の「点灯時間の短さ」や「暗さ」といった課題を解決、当時の生活習慣をかえるものになりました。

無尽灯は7種類作られ、商人を中心にさまざまな人々が買い求めました。こうした技術を日常生活に活かしただけでなく、わかりやすいチラシを使って宣伝した点でも久重は草分け的存在でした。

弓曳童子

次々と4本の矢を放つからくり人形

弓曳童子

久重が人々を驚かせたからくり人形には、ゼンマイ、水力、水蒸気などが使われていました。中でも人気を博したのが、連続して4本の矢を射る「弓曳童子」です。

久重は、まっすぐ飛ばない細工した矢もいれて、わざと的を外す演出をしていました。あえて失敗を見せたあと、次に成功させることで驚きと娯楽性を高めていたのです。ここに久重の「人を喜ばせる才能」の一面を見ることができます。

蒸気船の雛形

アルコールを燃料とした蒸気外輪船

蒸気船の雛形

「蒸気機関」という先端技術に対する久重の強い関心は、1852年に作られた蒸気船の雛形に見ることができます。京都に住んでいた久重は関白、鷹司卿(たかつかさきょう)邸の家の池で、蒸気船の模型を動かしてみせました。

1854年にペリー提督の黒船が来港したあと、久重は蒸気船の模型を公開しました。これが55歳にして佐賀藩に招待されるきっかけとなります。佐賀で久重は蒸気船や蒸気機関車の雛形の製作に成功し、国産の蒸気船を製造するようになります。

須弥山儀

仏教の宇宙観を表した模型

須弥山儀

1837年、久重は38歳で大阪を離れて京都の伏見に移住、そこで学者たちとの親交を深めます。久重は天文学の権威である土御門家(つちみかどけ)で学び、日本と西洋の学問を習得していきます。

長州の僧の依頼に応じて製作した須弥山儀は、仏教の宇宙観を表したもので、この中に時計の技術が使われています。これがのちの万年時計へと繋がっていきます。

報時器

電信技術を使って時刻をしらせる装置

報時器

明治維新から5年後の1873年、日本政府は通信の国家プロジェクトを発足、協力を求められた久重は73歳で上京します。佐賀藩で小型の電信機を作った経験のある久重は東京で会社を設立、モールス電信機の国産を始め、電信技術で時刻を知らせる「報時器」も製造、政府に納入します。

田中製造所の正面に掲げられた看板には誇らしげに「万般の機械考案の依頼に応ず」と書かれていました。その言葉どおり、電化製品、旋盤機、製粉機、羅針盤など幅広い製品を製造し、久重は日本の近代化に貢献しました。

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