1号機ものがたり 製品詳細

日本初の白熱電球

藤岡市助のあくなき探求心により、竹フィラメントの炭素電球が明治の東京に灯る。

初期の白熱電球

写真は初期の白熱電球

電灯の起源は1808(文化5)年英国の化学者が実験中に発見したアークの光に始まる。しかしアーク灯の光は強烈すぎたため人々からあまり歓迎されなかった。1840(天保11)年頃から研究者たちはアーク灯より小型で眩しくなく、ガス灯のように人の目に優しく、誰でも簡単に点灯できる「白熱電球」の開発にロマンを描き、白熱体に炭素棒や白金を 使うなど本格的な研究が始まった。その後、フィラメントが空気中で酸化するのを防ぐため、真空電球が考案されたが、当初は十分な真空排気装置がなく実用化には至らなかった。

寿命の長い真空電球の実用化は1879(明治12)年で、英国のスワンと米国のエジソンがほぼ同時期に炭素電球を完成させた。エジソンは、木綿糸に「すす」を塗って蒸し焼きにしたフィラメントで、炭素電球の点灯に成功した。さらに寿命の長いフィラメント材料を求め、世界各地から7,600種類を収集したところ、竹の植物繊維が優れていることを発見し、1879(明治12)年、京都の石清水八幡宮の竹を炭化して長時間の点灯に成功した。

日本で初めて電灯が輝いたのは、1878(明治11)年3月25日(電気記念日)で東京虎ノ門の工部大学校(現:東京大学工学部)で開催された電信中央局開業祝賀晩餐会であった。藤岡市助、中野初子らがグローブ電池で仏製デュボスク式アーク灯を点灯し人々を驚かせた。一方、白熱電球の日本初点灯は1884(明治17)年の上野・高崎間鉄道開通式で、この頃から白熱電球の暮らしや社会における利便性・事業性の認識が高まっていった。1887(明治20)年、東京電燈(現:東京電力)が設立され、産業に使用できる電力体系が整備されるが、白熱電球は米国・独国製などの高価な外国製品に依存するしかなかった。

藤岡市助は、1884(明治17)年、米国フィラデルフィア万国電気博覧会に国の使節として派遣された。博覧会視察以外にも米国の著名大学や電気会社・工場などを訪問し、その先進的な電気技術に刺激を受けた市助は、白熱電球の国産化を決心したものの、いくつかの技術的な課題があった。それはガラス管球を作ること、管球の中から空気を排出すること、フィラメントを作ることなどさまざまで、1889(明治22)年京橋の東京電燈の社宅で試作・研究を開始した。翌年4月に、電球製造の独立経営を目指し、同郷の三吉正一と共に、電球製造会社「白熱舎」を京橋槍屋町に設立した。最初は木綿糸でフィラメントを作ったが、エジソンが日本の竹を使用したと聞き、竹フィラメントの炭素電球12個を日本で初めて製造した。

  • 白熱舎社屋
    白熱舎社屋
  • エジソン記念碑(京都 石清水八幡宮)
    エジソン記念碑(京都 石清水八幡宮)

日本初の水車発電機

日本列島の豊富な水を活かす発電事業に着眼。
黎明期の水力発電事業を支えた、水車発電機。

日本初の水車発電機

日本最初の事業用水力発電所は、1891(明治24)年に運転を開始した京都の蹴上発電所である。そのNo.15号機として1895(明治28)年6月に据え付けられた60kW単相交流発電機は、1894(明治27)年末に芝浦製作所が製造した日本初の国産発電機である。

この発電所には全部で19台の発電機が据え付けられたが、他は全て欧米からの輸入品であった。なお、この芝浦製作所製の発電機はNo.15号機であるが、建設順序から言えば8番目に据え付けられた。

発電機は交流スタンレー2線式のベルト駆動の横軸機で、定格は単相60kW 1,000回転/分2,000V 133Hzであった。

発電の仕組みは、電機子巻線と界磁巻線が固定子側にあり、回転子が歯車状になっており、その回転によって磁気抵抗が変化するために、電機子巻線を横切る磁束が変化して誘導電圧が発生し交流電力が得られるという、いわゆる誘導子形の発電機である。

なお、水車は20台据え付けられ、そのうちの2台は1892(明治25)年、石川島造船所(現:株式会社IHI)で製造された。

ここに至るまでの発電機の発達に関する経緯は、一般の技術史、当社や電力会社の社史、および琵琶湖疎水記念館の資料などに記されているが、それによると、世界初の発電機は1833(天保4)年製、日本初の発電機は1883(明治16)年製で、いずれも直流発電機である。しかしこれらの直流発電機は整流子に問題があったため、その解決策の一つとして交流発電機が考えられた。

世界で最初に製造された交流発電機は、Professor Massonの示唆を受けたJoseph van Malderenによる1856(安政3)年製のものである。日本最初の交流発電機は1894(明治27)年に製造された本機である。

東芝レビュー10巻7号(578頁)によれば、1893(明治26)年に田中製造所から芝浦製作所になった当時、専任主任であった藤山雷太が時代の趨勢を察して三井部内の反対を押し切って電気機械製作を開始したが、それがこの本邦初の交流発電機の製造につながったと記されている。

その後、1901(明治34)年までに、水車との結合がベルト駆動方式から直結になり、また回転界磁形の三相交流発電機が開発された。1916(大正5)年には立軸機も開発され、これらによって水力発電機の原型が整った。それ以降は、高速化または低速化、高性能化、大容量化など時代の要求に応じて、新材料・新構造・新技術の開発・実用化が行われ、次々と新記録機が製造されて、電力系統の中核を担う水力発電機として発展していった。

日本初の電気扇風機

電球が灯る国産第1号機は、黒く頑丈な姿。
低価格の芝浦電気扇を経て、「扇風機は芝浦」へ。

日本初の電気扇風機

電気扇風機が日本に初めて輸入されたのは1893(明治26)年だが、翌1894(明治27)年に、芝浦製作所(当社の前身)は直流エジソン式電動機の頭部に電球をつけた日本初の電気扇風機を開発した。白熱電球が登場して間もないころに、スイッチ操作一つで、頭部に電灯が灯り、同時に風が出る扇風機は、真っ黒で分厚い金属の羽をつけた頑丈なものだった。

しかし、技術的な面や使い勝手は高価な輸入品には及ばなかったため、工夫を重ね、1916(大正5)年には品質の優れた、一般庶民にも手が出る低価格の芝浦扇風機を製造し、人気の家電アイテムになっていった。

当時は30cmと40cmの首振り形と固定型があり、単相誘導電動機の擬似三相式起動法によって大量生産を狙った。

さらに1920(大正9)年には、東海道線の急行列車向けに直流扇風機を製造し、換気のために窓をあけるしかなかった長距離乗車の客から大いに好評を得た。

アイロンと並んで最も早く国産化されたという電気扇風機。関東大震災で工場が全焼して生産が止まったこともあったが、景気の回復とともに需要も拡大し、卓上用、天井用、換気用、鉄道車両用など製作アイテムも増え、「扇風機は芝浦」と言われるようになった。

こうして扇風機は、製品の開発、機種の充実、生産の拡大が行われ、次第に家庭に普及していったものの、第2次世界大戦が始まると外国家電の輸入は止まり、国産品も1940(昭和15)年7月7日から実施された『贅沢品製造販売制限規則』によって製造が中止された。イラン、イラク方面への輸出がわずかに行われていたが、終戦までは海軍艦船用直流扇風機の製作に限られていた。

戦後の1946(昭和21)年になると、まず進駐軍向け、輸出向けに生産が始まった。翌1947(昭和22)年には国内一般向けの扇風機の生産、販売が再開され、以降、毎年新しい機能を搭載した新機種の開発が行われ、業界に大きな刺激を与えるようになった。

その後、高度成長期に入ると、扇風機の普及率は1961(昭和36)年~1963(昭和38)年の3年間で29%から48%へと急上昇した。この間、ユーザーの便利性を追究して無段変速装置、ワンハンド俯仰角調節装置、首振機構内蔵、ガードクリップ止めなどを採用した。その後も、風が断続するウィンク扇、和風扇、ガードレス扇、和室用アンドン扇、さらに羽根前面着脱装置、全面首振角度調整装置の採用を始め、カラー化を行い、1967(昭和42)年には分解包装のハンディパックを採用するなど、流通面でも大きな改革をもたらした。

  • 芝浦田中製作所

    芝浦田中製作所

  • 芝浦電気扇のカタログ

    芝浦電気扇のカタログ

日本初の誘導電動機

銅鉱山ポンプ用誘導電動機の力強い律動は、
多種多様なモーターが活躍する未来を予感させた。

日本初の誘導電動機

世界初の誘導電動機は1888(明治21)年テスラにより発明された。日本では1895(明治28)年、芝浦製作所(当社の前身)が銅鉱山ポンプ用6極25馬力18.5kWの日本初の二相誘導電動機を誕生させた。さらに1897(明治30)年、日本初の1馬力の三相誘導電動機を世に送り出し、1910(明治43)年には820馬力という当時としては大容量の電動機を製造している。大正時代に入るとさらに大容量機が製作されるようになった。1913(大正2)年に1,500馬力、1914(大正3)年に1,740馬力、1916(大正5)年に3,500馬力、1917(大正6)年に4,000馬力の誘導電動機を完成し、業界にその威力を示した。

大正中期から昭和の初頭にかけては記録的製品はみるべきものはなかったが、それでも年間製造台数は40万台、製造容量は50万kW近くまでになった。その後、数年間は不況に見舞われたが1932(昭和7)年ごろから活況を呈し、製鉄工業や化学工業などに100馬力以上の電動機を多数納入したのを手はじめに中小容量機も製造した。当時の圧縮機用、電動発電機用大容量のものは20極、30極またはそれ以上の多極機で回転数の低いものが多かった。1940(昭和15)年に6,000馬力、360rpmという圧延用電動機を製作し、大容量機の高速化記録を達成した。

太平洋戦争終結後、1950(昭和25)年になると産業界も復興してきて鉱山や水道、しゅんせつ船などの1,000馬力級大容量機も製作されるようになった。このころから各工業界に技術革新の波がおしよせたため、小形電動機の需要が急速に高まり、その種類も多様化してきた。また大容量機の製造も年を追って増加した。1960(昭和35)年に運輸省・航空技術研究所に納入した風洞実験用電動機(12,000kW、1,000rpm)は国産記録である。このほか輸出も活発でブラジルのウジミナス製鉄所に3,300kW高炉送風機用電動機を納入したほか輸出船の補機用交流電動機も多数納入している。

近年は水中で回転する水中電動機、油中で運転する油づけ電動機、その他ブレーキモーター、モータープーリー、ギヤモーター、チェーンモーターなど各種の用途に適合する特殊の形態のものが開発されている。また可変速交流電動機として従来から整流子電動機を製造してきたがECカップリングを使用したECモーターなどが開発されている。また環境問題への対応として高効率化、低騒音化、高信頼性化が必須となっている。

  • 昭和2年の1馬力誘導電動機

    昭和2年の1馬力誘導電動機

  • 明治32年頃製造の1馬力誘導電動機
    明治32年頃製造の1馬力誘導電動機

日本初の手動操作式油入開閉器

明治の終わりに電流遮断の新たな一歩。
木製油入開閉器の主役は乾燥させたアメリカ松。

特別高圧油入開閉器

写真は日本最古の現存する特別高圧油入開閉器(1911年製造)

高電圧回路に流れている電流を遮断することができる機器を開閉器(または遮断器)という。電流が流れている状態で急に遮断すると開閉器(または遮断器)内部の接触部分でアーク(落雷と同じ現象)が発生する。

このアークをどのような媒体の中で消すかで、いろいろな種類に分類される。媒体が油であるものを油入開閉器という。通常電流の何十倍にも達する故障電流を遮断することができる機器を開閉器と区別して、遮断器というが、明治時代は区分せず一律に開閉器と呼んでいた。遮断器の呼称は大正時代に入ってから使われるようになった。

1902(明治35)年製図の品川電灯向け油入開閉器の図面が当社に現存する最古の図面である。

1911(明治44)年に芝浦製作所(当社の前身)は、45kV-250Aの油入開閉器を日本で初めて作った。現存するものとしては、その時の製造図面と同一型番で、一部改良変更された製品が東芝未来科学館で展示されている。写真の製品は、1917(大正6)年に王子製紙苫小牧工場第1変電所に納入した三相E-2形油入開閉器の一相分である。

全体の構造は、一相当たり2槽の木製丸形タンクに開閉接触部をおのおの納め、木製のタンクには油を詰めた。タンク下部に固定接触部があり、可動ロッドが上下して開閉を行う。開路操作を行うと、木製タンク上部の碍子製ガイド部、上部木製の蓋に設けたガス抜き穴より、油の分解ガス(主成分は水素ガス)が噴出する。開路時の絶縁は、木製タンク内の気中間隙(かんげき)に頼る構造である。

明治時代の製造図面が当社浜川崎工場に現存し、図面によると木製タンクの材料は「アメリカ松」とあり、処理方法が「材料ハ充分乾燥シタル上、リンシード油ニテ四八時間煮、摂氏七拾度位ニテ乾燥スル事」と指定されている。木製丸形タンク製造の工作方法については、「全周四八枚成可ク板目ヲ出ス事」、「合セ目ハ膠(ぴったり)作ル事」、「外部ラック塗リノ事」などの指示がされている。製造図面の製図日付には「20日4月44年製図」と記載され、この開閉器は、1911(明治44)年から製造された日本初のものであることがわかる。また寸法はインチで記入されている。

東芝未来科学館展示の製品は、王子製紙の第1変電所の老朽更新で撤去され、当社浜川崎工場に1962(昭和37)年に里帰りした。その後、東京電力の電気の史料館に貸し出し、展示を経てから、東芝未来科学館で引き取り、現在に至っている。この引き取り品は、明治時代の製造図面と外観的にも異なり、絶縁物として木の代わりに碍子が使われている。1994(平成6)年にX線診断とファイバースコープ撮影の両方で内部調査を実施して、木製タンクの内部構造が明らかになり、明治時代の製造図面と異なることがわかった。しかし、タンク内の構造物のアーク痕跡から電流遮断・消弧(しょうこ)はどの部分で行われていたかがわかり、歴史的な史料であることを物語っている。

  • E-2形油入開閉器外形図

    E-2形油入開閉器外形図

  • 昭和37年浜川崎工場引取時のE-2形油入開閉器組立状態

    昭和37年浜川崎工場引取時のE-2形油入開閉器組立状態

日本初のプランジャー形保護リレー

プランジャー形保護リレーから誘導円板形保護リレーへ、
その後、高速度の誘導円筒形保護リレーに進化。

日本初のプランジャー形保護リレー

送電線や変圧器で構成される電力系統で、落雷や設備不良などが原因で事故が発生し大電流が流れた場合、事故設備の損傷拡大を防止し、健全設備による電力の供給を継続するため、事故個所を遮断器により迅速に電力系統から切り離す必要がある。事故個所を検出して、この遮断器に素早く切り離しの指令を出すのが保護リレーである。1900(明治33)年に、米国でプランジャー形保護リレーが世界で初めて開発された。それまでの電力系統は、ヒューズまたは過電流引き外し機構付き遮断器で保護されていた。わが国では、芝浦製作所(当社の前身)が、1907(明治40)年に日本初のプランジャー形保護リレーを製作した。プランジャー形保護リレーは、可動鉄心(プランジャー)を電磁力により吸い上げて動作させる原理である。その後、誘導円板形リレーが米国で開発されたのは1914(大正3)年のことで、現在でも一般家庭の電力量計に使われているものと同じように、電流あるいは電圧入力で作られる電磁力により、円板を回転させる原理でリレーを動作させる。電圧や電流の入力に応じて、電力方向リレーや過電流リレーが構成される。誘導円板形リレーでは、プランジャー形に比べて、動作感度や動作時間の精度が著しく向上した。芝浦製作所では、1920(大正9)年にこの誘導円板形過電流リレーを国産化している。

その後の1929(昭和4)年には、米国で高速動作を目的としたバランスビーム形リレーが発表されている。バランスビーム形は、中央の支点で支えられ機械的に平衡した接触子をコイルによる電磁力で動作させる原理のもので、芝浦製作所でも1938(昭和13)年に同種のものを製作している。

バランスビーム形は、高速動作は可能であるが、動作値が不安定なところが欠点となる。これらを克服し、動作値が安定で高速動作が可能な保護リレーが誘導円筒形である。この誘導円筒形リレーは1937(昭和12)年に米国で開発され、2年後の1939(昭和14)年には芝浦製作所で製作されるようになった。まもなく第2次世界大戦が始まったこともあり、実用装置として広く使われるようになったのは、戦後になってからのことである。この誘導円筒形リレーは中央に置かれた円筒型の回転子の周りに鉄心とコイルで作られた4極の磁極があり、磁極で作られる回転磁束により回転子が動作するものである。

円筒型の回転子は中空で、慣性が小さく、また磁極と回転子が接する面が大きくとれるため、高速動作が可能となる。そのため、コイルへの入力として電圧や電流の組み合わせをいろいろ変えることにより、様々な保護リレー特性が作り出せる。戦後の保護リレーの発展は、当社による誘導円筒形のモー形距離リレー開発で始まったとも言える。プランジャー形保護リレー、誘導円板形保護リレーで培われた電磁機械形リレーの技術は、戦後になって誘導円筒形(カップ形)保護リレーとして飛躍的に進歩した。誘導円筒形では高速動作、高精度、高機能な保護リレーが実現でき、戦後の産業復興に必要であった電力の安定供給を陰から支えた。

  • 誘導円板形保護リレー

    誘導円板形保護リレー

  • 誘導円筒形保護リレー

    誘導円筒形保護リレー

日本初の単相積算電力計

電力従量料金制の切り札。
ヨーロッパ産製品にひけをとらない、純国産技術による積算電力計を開発。

日本初の単相積算電力計

電力の公正な取引に使われる積算電力計。日本の計器事業は、1915(大正4)年に逓信大臣から単相積算電力計I-14形(100V5A)の型式 承認を取得し、初めて本格的なスタートを切った。

家庭用配電が日本で始まったのは1887(明治20)年のことで、1907 (明治40)年頃から電灯が普及し始めた。それに伴い電力の節約や点灯料金の公平を期すため、定額料金制から従量料金制へと変更が進められ、1910(明治43)年には電気測定法が公布され、検定制度が確立した。

当時は国産の積算電力計がなく、主に米国GE社からの輸入に頼っていた。1911(明治44)年になると東京の三田工場にメートル工場準備係を設置し、積算電力計の製造計画に着手した。

電球で技術提携をしていたGE社からC-6形、I形を輸入していたこともあり、積算電力計の技術を導入したのである。

1914(大正3)年12月には川崎工場で単相2線式積算電力計の組立を開始。翌1915(大正4)年7月7日には、単相2線式積算電力計I-14形(100V5A)の型式承認を得ることができ、9月に発売した。このI-14形はGE社の設計で、ほとんどの部品もGE社からの輸入だったので、同じ 形名で製造販売することになった。

ヨーロッパの戦火が激しくなると、外国製の積算電力計の輸入が途絶し、長らく暖めていた製造計画が実行され、5年後の1920(大正9)年には製造台数3万台を超えるまでに成長した。

欧米での戦争が終結した1921(大正10)年以降、ヨーロッパから安価な製品が大量輸入されるようになると、積算電力計は輸入品に市場を奪われ、逆境に立った。そこで日本市場に適した製品の開発を決意し、1924(大正13)年に純国産技術による最初の単相2線式積算電力計I-3形を完成。1926(大正15)年には三相3線式積算電力計D-15形を開発・製造し、品質・価格ともヨーロッパ製品と並ぶ積算電力計が誕生した。

しかし、ヨーロッパ製品の小型化・軽量化への改良があまりに急速だったため、I-3形の量産を始めたばかりであったが、ヨーロッパ製品を追い越すための新機種開発に取り組み、1929(昭和4)年に最新の角形カバー、現字形レジスター、従来の1/3という小型化・軽量化を実現した単相積算電力計I-4形を完成させた。

  • 積算電力計D-6型

    積算電力計D-6型

  • 積算電力計の製造ライン

    積算電力計の製造ライン

日本初のX線管

真空管製造の独自の技術と設備を駆使して誕生。
古代インドの尊者の名を冠した純国産X線管球。

日本初のX線管

1895(明治28)年にドイツのW.C.レントゲンは真空放電の実験中に極めて不可思議な放射線を発見し、これをX線と命名した。使われていた放電管はとても簡素な構造で、洋梨型のガラス球にアルミニウムの両極を封入した、一種のクルックス管だった。

この簡単な放電管の実験中に検出されたX線は当時の科学者を驚動させ、早速さまざまな場所で追試が行われたという。

当社がX線管の研究に着手したのは1914(大正3)年からだが、当時のX線管はドイツの製造者による独占状態が続いていて、しかも第一次世界大戦開戦直前というキナ臭い時代だった。当時日本ではX線管の入手がほとんど不可能になりつつあり、研究にも支障をきたすようになったため、ついに国産化に踏みきったのである。

実験室(現:研究開発センター)では、真空管の材料として必要不可欠なガラス、タングステン、モリブデンなどの特殊材料の研究がかなりの成果をあげてきたこともあり、また材料の供給にも不足がなく、さらに電球製造用の排気設備と熟練した技術をもっていたため、他社に先駆けてX線管の国産化に着手した。

当時の真空管工業は白熱電球が主で、高級真空管は、まだ研究段階ではあった。経験もなく、材料の選択・加工、設計・組立・排気などに至るまで、未知のフィールドで努力を尽くした結果、1915(大正4)年に純国産品を完成させた。そして「ギバX線(レントゲン)管球」と命名し、市場に提供することになった。当時の実験室長だった藤井鐵也が順天堂病院X線光線科の藤浪剛一科長の指導を受け、完成したのであった。

X線発見の年から数えて一世紀以上たっているが、医療関係では人類の保健と治療に貢献するという独自な使命をもちながら、他方では金属材料の検査、各種元素の分析など、重工業生産分野でも多方面にわたる活躍をし、近代の産業のなかでは欠くことのできない役割を担い、また立場を占めている。

(ギバとは古代インドの釈迦の弟子で名医と名高かったギバ尊者から名づけられている)

  • 昭和初期のX線管

    昭和初期のX線管

  • ギバ75型X線装置

    ギバ75型X線装置

日本初の電気アイロン

国産第1号の電気アイロンは、家電製品の中で量産化が最も早く、
戦前ではわが国の家電普及の先陣を切った。

初期の電気アイロン

写真は初期の電気アイロン

アイロンやコテは衣類のしわ伸ばし道具と考えると、その起源はとても古く、紀元前2000年前からあったという説もある。日本では電気のない時代、洗い物のしわを伸ばすのに「火熨斗」(ひのし:銅製の入れ物に炭火を入れたもの)を用いていた。

平安時代に、丸い器に炭火を入れて使う火熨斗が使われ、また江戸時代には、炭火で焼いて使う焼きゴテが登場した。明治中期になって、イギリスから炭火アイロンが輸入され、これが国産化され普及した。炭火アイロンは、ふたを開き中に炭火を入れ、その熱気と容器の重みを利用して布地のしわを伸ばすものである。

アイロンは英語でiron、すなわち鉄のことで、布地のしわを伸ばすには鉄の重さと熱容量が最適である。コテは、炭火や熱灰の中に入れて加熱し、衣服の細かい部分の仕上げや直しなどに使う。1882(明治15)年、アメリカのニューヨーク州のヘンリー・W・シーリー(H.W.Seely)が、初めて電気アイロンの特許を取得した。驚いたことに、まだ電気が家庭に十分供給されていなかった頃である。発明時には、プラグも電源コンセントもなかったので、分岐したコード線のワイヤーをピンの孔に差し込みネジで固定している。

1910(明治43)年頃、アメリカで電気アイロンが本格的に実用化され、1914(大正3)年、日本に輸入された。翌1915(大正4)年、芝浦製作所(当社の前身)が国産初の電気アイロンを発売した。重さ3ポンド(250W)品が約8円、4ポンド(300W)品が約10円であった。小学校の先生の初任給が50円の頃の8円~10円であり、いまなら4~5万円に相当する高価な商品であった。容量は、当時重さ(ポンド)であらわし、発熱体は、マイカ(雲母)板にニクロム線を巻いていた。

当初の電気アイロンは、サーモスタットもなく、指先をぬらして底面に触れ温度を判断していた。布地を焦げ付かせることもあり、必ず布地とアイロンの間に手ぬぐいのような別の布を当てていた。これを“当て布”という。

1937(昭和12)年の国内調査によると、電気アイロンの普及台数は313万台もあった。アイロンは実用性が高く、他の家電製品に比べれば比較的安く作れるようになり、戦前の家電製品の中では普及率トップの商品となった。

戦後1946(昭和21)年、いち早くアイロンの製造に着手し、約12万台の製造を行っている。1954(昭和29)年にスチームアイロン、1966(昭和41)年にはベース(かけ面)にフッ素樹脂加工を施したアイロンが発売され、繊維の焦げ付きがなくなった。この頃には、全国の普及率が90%を超え、早くも成熟商品と言われるようになった。

1979(昭和54)年、水タンクが透明で水量がひと目で分かるカセット式スチームアイロンを発売した。その後コードリール付きアイロン、マイコンアイロンと技術革新が続いた。1988(昭和63)年、コードレスアイロンを発売し、今では国内市場の約65%を占める主流となっている。(2015年時点)

アイロンは現在では市場の小さな商品ながら、その後もコンパクトアイロンや、オープンハンドルアイロンなど、次々と新たな工夫が続けられている。

  • 芝浦製作所 電気アイロンのカタログ

    芝浦製作所 電気アイロンのカタログ

  • 東京電気 マツダ新報に掲載のイラスト

    東京電気 マツダ新報に掲載のイラスト

日本初の三極真空管(オージオンバルブ)

戦前に当社の開発で日本の真空管の歴史が始まり、戦後は日本のエレクトロニクスの発達に貢献した。

日本初の三極真空管(オージオンバルブ)

1917(大正6)年に当社は、日本で最初の三極真空管(オージオンバルブ)を完成した。これはアメリカのド・フォーレ(Lee de Forest)が実用的な三極真空管を完成してから10年目にあたり、ここに日本の真空管の歴史が始まった。1923(大正12)年の関東大震災の打撃を克服して完成したUV-199は本格的な真空管で、翌1924(大正13)年に始まったラジオ放送の受信用主力管となり、同年末には月産1万本に達したと記録されている。1925(大正14)年以降、自動ステム製造機・万能グリッド巻線機・高周波電気炉、さらに1929(昭和4)年に自動封止排気機(シーレックス)がGE社から輸入され、真空管製造の近代的基礎体制が確立した。更に、国産最初の酸化物陰極直熱管UX-112A、傍熱形UX-226などの歴史的受信管の製作に成功した。1929(昭和4)年から1930(昭和5)年にかけて四極管UX-222/224が完成、整流管UX-280が生まれ、さらに1932(昭和7)年には五極管UY-247、可変増幅率五極管UY-235が完成した。またこれらに並行して電池用真空管X-109/111も生まれ、この時までサイモトロンと呼ばれていた商品名を新たに"マッダ受信用真空管"と改めることになった。1933(昭和8)年には耐震構造への切替えが全面的に行なわれ、S形と呼ばれたナス形バルブが、だるま形のST形に変わり、1936(昭和11)年に当社生産の真空管の品種は40種以上に及んだ。

一方、次第に戦争準備段階にはいった軍の要請によって、電池を使用する軍用受信管の開発も進み、UX30シリーズの量産が開始された。1938(昭和13)年に工場の近代化を達成して本格的な量産体制が整えられると供に、6F6/6V6/6J7などの全金属真空管の研究も進行し、小形直熱管(ピーナツ管)11M/14Mが完成し、顕著な技術的前進が認められるに至った。1939(昭和14)年には航空機用として6300シリーズの開発が始まり、翌1940(昭和15)年には、超短波用受信管としてエーコン管954/955の研究も始められたのであった。

戦時体制への進展から1940(昭和15)年前後の情勢は、わが国の家庭用受信機に要する資材に極端な制限が要求された。その解決のためトランスレス方式をとる以外になく、1939(昭和14)年に6C6などを原形とした12Y-R1/V1などの150mAトランスレス・シリーズが開発され、量産に移されることになった。また軍用受信管の増産が強力に要請され、代表的な製品がRH-2/RH-8/CH-1などのいわゆるHシリーズであったが、戦況の悪化とともに、品種を整理して生産体制を簡易にするため、RH-2を母体とした「ソラ」を1943(昭和18)年に完成、これを万能管と称して増産にはいった。この年以降の受信管の研究から生産までは、多摩陸軍研究所の指揮下におかれていた。したがって当社の持っていた技術のほとんどすべてが、社外に公開される結果となった。これは戦後、当社にとっては不利益な条件を残したことになったのであるが、一面わが国の電子管技術の平均水準を上げ、日本のエレクトロニクスの発達に少なからぬ貢献をしたものとして意義があった。

  • 初期の受信管 検波・増幅用3極管 UV-199

    初期の受信管
    検波・増幅用3極管 UV-199

  • 初期の受信管 検波専用3極管 UX-200

    初期の受信管
    検波専用3極管 UX-200

日本初のラジオ用送信管

日本で初めてラジオ放送が始まる9年も前から実験室では国産化を目指して送信管の研究を始めていた。

初期のプライオトロン

写真は初期のプライオトロン

ラジオ用真空管の研究は1916(大正5)年、東京電気の実験室で始まった。1919(大正8)年には入力30Wの試作品“プライオトロン”が完成し、逓信省電気試験所に納入した。これが日本初の送信管製作となった。それまで輸入に頼ってきた無線機や真空管は国産化を目指し苦心を重ねて研究・開発を行い、空冷式の三極送信管・四極送信管を完成させた。

その後1925(大正14)年にラジオ放送が始まり、東京・大阪・名古屋など各地に放送局が開設された。そのころから水冷式送信管の研究が進み、1927(昭和2)年に初めて10kW水冷三極管UV-207の開発に成功した。1930(昭和5)年には当時の日本無線電信株式会社との共同研究で、20kW水冷送信管SN-167を使用した大型短波送信機を完成させ、小山送信所に納入した。

満州事変が始まるとともに、無線通信装置の製作は多忙を極め、放送機も50kW、100kW、150kWと出力が増大し、基幹となる送信管も画期的な大型水冷管の製作へとチャレンジを始めた。

1933(昭和8)年には陽極損失100kW水冷三極管UV-169を、翌1934(昭和9)年には150kW放送機用の陽極損失250kW水冷三極管UV-171を完成させ、戦前の送信管製作の歴史を塗り替え一大隆盛期を迎えた。UV-171は全長165cm、最大直径25cmの送信管で、設計から製作まで独自の方法で仕上げたものであり、現在でも世界最大級にカウントされている。1936(昭和11)年に完成した東京中央放送局 (JOAK)の150kW放送機に使用された。満州事変に続く戦争の拡大により、大型水冷式送信管需要が増大すると、この需要増大に対応するため、1935(昭和10)年には製造本拠を柳町に置いて生産増強に努めたが、空襲、疎開、終戦といった戦局の変転と共に、堀川町に本拠を移して再建に努めた。

戦後の1949(昭和24)年になると、強制空冷三極管8T92R、水冷三極管8T92が完成。NHK福岡や新潟などで10kW中波放送機の終段電力増幅管や変調管として使われた。同年、水冷三極管7T56、8T65、8T68などの送信管も完成し、3kW、20kW短波送信機に使われた。

戦後の送信管技術について特筆すべきは、トリウム、タングステン陰極の水冷管への応用である。真空管材料の品質向上と排気技術の進歩により達成されたもので、国際電信電話株式会社・小山送信所での実装寿命試験に成功した。また陰極水冷三極管は、各種の短波送信機に使われた。民間ラジオ局用には中波放送機用各種装信管の製作が盛んになり、1953(昭和28)年には陽極損失50kWの水冷三極管9T71、陽極損失25kWの強制空冷三極管8T71Rを完成させている。

  • UV-171

    UV-171

  • 強制空冷三極管8T71R

    強制空冷三極管8T71R

日本初の送信用アレキサンダーソン型高周波発電機

長距離無線通信を国産技術で実現。
黎明期の国際無線通信を支えた、通信用高周波発電機。

日本初の送信用アレキサンダーソン型高周波発電機

通信は第一次世界大戦後、通信量増加や通信時間の短縮要求に応えるため、ケーブル方式に代わり無線方式が採用されるようになった。初期の火花式送信機や電弧式送信機は、信号の発信に火花放電やアーク放電を利用しているので、出力が安定せずノイズが大きい等の欠点があった。さらに通信量を増やし、通信距離を延ばすために、高出力でノイズの無い信号を連続して送信できる装置が求められた。

そのような中、無線送信機の発信器として、1908年米国GE社のE.F.W. Alexandersonが同氏の名前を冠したアレキサンダーソン型高周波発電機を発明し、1920年頃には多数の出力200kW機が無線通信局で使用されるようになった。出力周波数は20kHz程度であり、通信周波数としては低い周波数に属するが、発電機としては一般的な出力周波数50Hz/60Hz(電力系統周波数)より極めて高いため、高周波発電機と称される。

当時、長距離無線通信技術を必要としていた我が国は、独自技術で同型機を開発することになり、1920年に芝浦製作所が日本海軍からの発注に基づき、125kVA機(出力100 kW)の開発に成功した。125kVA機は、1922年に当時の日本海軍佐世保無線電信所(針尾送信所)に配備され、中国大陸、東南アジア、南太平洋方面の通信に使用された。また、125kVA機は後のさらに出力を上げた400kW機および500kW機の先行開発機という位置付けもあった。

400kW機は、逓信省からの発注で製造され、1922年、原町送信所に配備され太平洋方面の通信に使用された。原町送信所は1923年、関東大震災発生の一報を米国に送信したことで有名である。500kW機は日本軍から発注され、中国北京郊外の双橋無線電信局に配備された。どちらも同型機としては世界最高出力であり、我が国の国際通信に大きく貢献した。

400kW機の完成直後となる大正10年(1921年)7月に芝浦製作所が残した図書「400キロワット特別高周波電動発電機の説明」の文末には、開発の困難さについて記述がある。 「本機製造に当たりて、時あたかも世界大戦の末期に際し、使用材料の輸入殆ど望みなかり為め機械の全部は皆内地製材料を使用せり。是がため弊所員の苦心実に尋常ならざるものありき。しかして各部設計及び製作は皆幾多の見本を製造しかつ之を試験してその結果により決定せしものにて、一片いやしくもせざりし苦心と努力とは製作に関与せざりし人々には想像だもなし能(あた)わざる所にして、全機は実に各担当者の努力の結晶と称するも敢えて過言に非ずと信ず」

今日、世界的に見ても保存が確認されている大出力のアレキサンダーソン型高周波発電機は本125kVA機(東芝エネルギーシステムズ株式会社京浜事業所所蔵)と海外にあるGE社製200kW機2台のみであり、技術遺産として大変貴重なものであると、電気学会より2019年3月、「第12回でんきの礎」に顕彰された。

  • 400kW機は、1922年原町送信所に配備された

    400kW機は、1922年原町送信所に配備された

  • 125kVAアレキサンダーソン型高周波発電機

    125kVAアレキサンダーソン型高周波発電機

  • 針尾送信所の現在の遠景 佐世保市教育委員会提供

    針尾送信所の現在の遠景 佐世保市教育委員会提供

世界初の二重コイル電球を試作

エジソンの炭素電球、クーリッジの引線タングステン電球、ラングミュアーのガス入り電球に匹敵する世界的な発明。

世界初の二重コイル電球を試作

1890(明治23)年に白熱舎(当社の前身)が創立され、白熱電球の製造を開始した。当時、最も困難を極めたものは、炭素線の製造であった。当初は、英国より購入の電球製造機械に付属してきた木綿を用い、後にはエジソンに倣って竹を用いたが、いずれも断線率が高く、1900 (明治33)年に至って、綿を加工した炭素線を採用した。

1907(明治40)年ごろ、欧米でのタングステン電球の製造を知った当社は、まず、三田本社工場内で小規模の試作を開始した。その後1910(明治43)年、建設中の川崎工場内にタングステン電球の製造ラインを 設置して、本格的な製造に着手した。

しかし、このころのタングステン電球は、いわゆる押し出しタングステン線であり、その製造法ではタングステンの材質が脆弱(ぜいじゃく)で思うように生産性が上がらなかった。この線を用いて製作した電球の価格が相当高くなり、一時は事業の採算が取れない状況であった。

ところが、1911(明治44)年に米国GE社クーリッジ博士の引線タングステン線の完成が報じられ、当社も同年10月より引線タングステン線による電球の製造販売を開始した。この可延性タングステン線の発明は、材質の強度や品質の均等を根本的に改善すると共に、ガラス球内の排気装置の発達もあり電球製造に革命的な影響を与えた。

その後、米国GE社ラングミュア博士は、電球の寿命はタングステン線の蒸発によって左右されることを発見し、この蒸発を少なくすれば寿命を延ばすことができると考え、1913(大正2)年に電球のガラス球内にタングステンと化合しない窒素ガスを封入したガス入りタングステン電球(窒素電球)を発明した。当社はこの発明の報に接して直ちにこれを輸入販売すると同時に、その試作研究に着手した。

ガス入り電球はタングステン線の蒸発が少ないため黒化が少なく、窒素など不活性ガスの中では線の表面にガス層ができて線を包み、ガス損失は線の直径が太いものほど少なくなる現象が発見された。そのため、直線をコイルに巻き有効直径を太くすることが考案され、いわゆるコイル状タングステン線を使用するようになった。

当社でもコイル状タングステン電球の研究を進めていたが、特に三浦順一技師は、従来の単一コイルをもう一度コイル化した二重コイル電球を1921(大正10)年に初めて試作した。この二重コイル電球は、単一コイル電球と比較してさらに効率が良く、多くの期待を集めたが、当時はまだ量産技術が確立されておらず、実用には至らなかった。

タングステン線とガス入り電球の研究、さらに二重コイル化の実験的な製作研究を続け、1927(昭和2)年に活動写真映写機の特殊電球に採用した。その後、従来のガス入り電球と同様の均一な品質を工業的に量産できる技術を確立し、1936(昭和11)年に新マツダランプ(ガス入り二重コイル)として発売した。

  • クーリッジ博士時代のタングステン電球

    クーリッジ博士時代のタングステン電球

  • ラングミュア博士発明のガス入り電球

    ラングミュア博士発明のガス入り電球

  • 新マツダランプのカタログ

    新マツダランプのカタログ

日本初の40トン直流電気機関車

民間企業初の国産電気機関車は昭和61年まで近江鉄道で活躍していた。

日本初の40トン直流電気機関車

芝浦製作所(当社の前身)は1923(大正12)年に40トン直流電気機関車を6両製造し、伊那電気鉄道(当時は民間鉄道)に納入した。これが当社初の電気機関車であり、同時に日本の民間企業として最初に製造した大形電気機関車であった。なお、機械部分は石川島造船所が担当した。

この機関車は凸型4軸で当初の形式名は「デキ1」であった。1943(昭和18)年に伊那電鉄が国有化された後も変わらなかったが、1952(昭和27)年にED31形に改められた。納入後、一貫して伊那松島機関区に配置され、天竜峡以北の飯田線で使用されたが、1955(昭和30)年から1956(昭和31)年にかけて除籍された。1号機と2号機は西武鉄道に譲渡されて多摩川線で使われ、1960(昭和35)年に近江鉄道に再譲渡された。3~5号機は当時の国鉄から直接近江鉄道に譲渡された。1990(平成2)年に5号機が、2004(平成16)年に1号機と2号機が廃車された。3号機と4号機は1986(昭和61)年まで貨物列車のけん引用として活躍した後、工事列車用に使用されていたが、現在は休車状態である。6号機は国鉄から上信電鉄に譲渡された後に箱形に改造され、2009(平成21)年に再整備された。3、4、6号機は在籍車両で、撮影会などの人気車両である。(2011年時点)

わが国の国有鉄道において電気機関車による列車の運転は、1912(明治45)年に碓氷峠の横川~軽井沢間が電化されたとき、ドイツAEG製のアプト式10000形(後のEC40)を使用して始まった。第1次世界大戦の終わる頃、国有鉄道は国内で生産される石炭の約12%に当たる年間300万トンを消費していた。一方、当時は水力発電が急速に伸びていたので、1919(大正8)年に石炭を節約するために、鉄道電化が閣議決定された。同年に鉄道省(後の国鉄)は、このドイツAEG製のアプト式10000形を参考にして、10020形(後のED40)を大宮工場で製作した。その後、1922(大正11)年に東京~小田原間および大船~横須賀間の電化に着工し、1925(大正14)年に完成したときに使われたのは全て輸入機関車であった。

しかし、それらの輸入機関車は故障が続出し、補修用部品の調達が間に合わないため、国産化が強く求められた。当社は、他社に先駆けて米国GE社と技術提携して電気機関車の設計および製造技術を習得し、デキ1形直流電気機関車を伊那電鉄に納入したのであった。続いて1926(大正15)年に撫順炭坑の石炭運搬用に73トンの電気機関車を南満州鉄道に納入し、1927(昭和2)年には鉄道省にAB10形蓄電池機関車(後にEB10形電気機関車に改造)を2両納入した。その後、将来の東海道線輸送力増強の必要性から鉄道省は民間のメーカーを集めて共同設計会議を開き、108トン電気機関車EF52の設計に取り掛かった。当社は、汽車会社と組んで1928(昭和3)年に同形機2両(3、4号機)を完成して、国府津機関区に納入した。このようにして、わが国の電気機関車国産化の道が固まって行った。

  • 朝日野~日野を走るED31 型

    朝日野~日野を走るED31 型
    電気機関車4号機
    平成12年3月
    写真提供:近江鉄道(株)

  • 「芝浦製作所」の刻印があるED31 型電気機関車のコントローラー

    「芝浦製作所」の刻印がある
    ED31 型電気機関車のコントローラー

日本初のラジオ受信機

交流電源によるラジオ受信を可能にする受信用真空管により、
「ラジオは電灯線から」が実現。

初期のラジオ受信機サイモフォンA-2型

写真は初期のラジオ受信機サイモフォンA-2型

1904(明治37)年にフレミングが二極真空管を発明し、1907(明治40)年にド・フォーレが三極真空管を考案し、さらに1913(大正2)年にラングミュアがハードバルブを完成し、真空管工業の進歩に大きな一歩を踏み出していた。

やがて欧米で第1次世界大戦が始まるにつれ、真空管は飛躍的な進歩を遂げ、以来、無線の心臓部を形成する真空管の研究は、国防科学の立場からも国家的な意義をもつことになった。

当社では白熱電球製造で会得した真空工学の知識と設備を基に、1916(大正5)年に真空管の研究に着手した。翌1917(大正6)年に日本初の真空管を完成し、「オージオンバルブ」と名づけた。1919(大正8)年には円筒型の陽極をもつフランス型受信管を製作し、陸軍省に納入した。また逓信省からの特命で、タングステン螺旋陽極をもつ送信管を製作納入した。1920(大正9)年には海軍省より委嘱された海軍型受信管やD型プライオトロンというブランドネームをもつ送信管を製作納入した。

そしてこの年、アメリカで初めてのラジオ放送が始まり、ラジオ受信機が大衆に迎えられた。日本でも無線放送の実験が各所で行われ、1923(大正12)年末には、放送用私設無線電話規制が制定され、ラジオアマチュアのためにハードバルブを製作し、「サイモトロン」(電波の器)と名づけて販売した。

真空管の需要は1921(大正10)年以降、増加の一途をたどり、その製造技術も向上していったが、1923(大正12)年の関東大震災で工場・研究室が全壊した。しかし、1925(大正14)年3月には、芝浦に東京放送局が開設され、すぐにラジオ放送が始まった。ラジオ受信機は放送の本格的発展の軌道にのって需要が高まり、その後の真空管工場の多忙を極め、夜を日に継いでの生産も需要を満たすことができず、工場増設をしながらも注文に追われる日々が続いた。一方、聴取者数の増加を図ることも最大要件になっていた。

最初は安価な鉱石式受信機が普及したが、視聴者の知識と興味により真空管式受信機の需要が激増した。しかし乾電池の取り扱いが原因で、「ラジオは壊れやすいもの」という風評が流れ、ラジオ受信機の普及に影響を受けた時期もあった。その後、ヨーロッパで交流電源によるラジオ受信を行う研究が始まり、受信用交流真空管が製作されるようになった。当社も研究に着手し1928(昭和3)年にUX112Aを発売した。続いて12月に交流増幅管UX226、翌1929(昭和4)年には整流専用KX112A、同年10月に検波管UY227の発売に至り、「ラジオは電灯線から」という標語が実現されていった。

  • ジュノラIA

    ジュノラIA

  • 携帯用サイモフォンC型

    携帯用サイモフォンC型

  • 初期のオージオンバルブ

    初期のオージオンバルブ

世界初の内面つや消し電球

クーリッジ博士の引線タングステン電球、ラングミュア博士のガス入り電球に匹敵する世界的な発明。

世界初の内面つや消し電球

1879(明治12)年にエジソンは、木綿の繊維を炭化させてフィラメントにした白熱電球を発明した。その後、長持ちするフィラメントを作るため、数千種類の材料を世界各地から取り寄せ、京都・石清水八幡宮の真竹が最も良いことがわかり、この真竹をフィラメントに使った実用的なカーボン電球を開発した。その後、欧米の電灯事業は、これを契機に急速に発展した。

日本では1883(明治16)年、東京電燈(東京電力の前身)が設立され、藤岡市助博士が工部大学校(東京大学工学部の前身)から技師長として迎えられた。1888(明治21)年頃火力発電所が相次いで完成し、電灯利用者の数もようやく増えるようになった。しかし、肝心の電球はすべて外国製品に依存しなければならない実情であった。そこで、藤岡市助は電球国産化のため、1890(明治23)年に「白熱舎」(当社の前身)を設立した。最初は綿糸を使ってフィラメントを作っていたが、実用に堪える白熱電球はできなかった。その頃、米国では日本の真竹を使っていると聞き、さっそく真竹をフィラメント材料として開発した結果、1890(明治23)年に初めて電球製造に成功した。生産量も1892(明治25)年頃3,000個/月程度になったが、価格では競争にならずほとんどを外国製品に占められていた。その後、1900(明治33)年に炭素線用綿(コットン)によるフィラメント製造に成功し、生産も飛躍的に増加した。

1911(明治44)年に米国GE社クーリッジ博士の引線タングステン線の完成が報じられ、当社も引線タングステン線による電球の製造販売を開始した。この引線タングステン線の発明は、材質の強度不足や品質の不均等を根本的に改善すると共に、ガラス球内の排気装置の発達もあり電球製造に革命的な影響を与えた。その後、米国GE社ラングミュア博士は、電球の寿命はタングステン線の蒸発によって左右されることを発見し、この蒸発を少なくすれば寿命を延ばすことができると考え、1913(大正2)年に電球のガラス球内にタングステンと化合しない窒素ガスを封入したガス入りタングステン電球(窒素電球)を発明した。当社は、この発明の報に接して直ちにこれを輸入販売すると同時に、その試作研究に着手。1915(大正4)年に窒素ガス入り電球の製造に成功した。

ガス入りタングステン電球の出現で、電球の効率は高まり、光源の光度はいよいよ強くなり、かつその表面輝度はますます高くなった。そのため、眩しさが一般照明の大きな問題となった。最初はガラス球を外面からつや消しする方法がとられたが、表面が汚れ易く、かつ掃除も困難で、従って光の透過量も急速に減少するという欠点を持っていた。そこで、当社の不破橘三技師がガラス球の内面をつや消しすることに着眼し、研究を進めた。しかし、内面を化学的につや消しされたガラス球は、強度が大変弱く、実用にはならなかった。その後、研究に専心し、苦心努力の結果、1925(大正14)年にガラス球の強度においても外面つや消しと遜色のない内面つや消し電球の製作に成功した。

  • クーリッジ博士時代のタングステン電球

    クーリッジ博士時代のタングステン電球

  • ラングミュア博士発明のガス入り電球

    ラングミュア博士発明のガス入り電球

日本初の電鉄用鉄製水銀整流器

国産初の電気鉄道用鉄製水銀整流器を経て、
四半世紀後、1,500V 1,000kW鉄製水銀整流器が誕生。

日本初の電鉄用鉄製水銀整流器

水銀整流器とは内部を真空にしたガラス容器または鉄製容器内に水銀を陰極とし、黒鉛の円柱を陽極として封じ込み、水銀アーク放電を利用して交流を直流に変換する(整流)装置である。サイリスターなどの電力用半導体素子が開発される1960(昭和35)年ころまでは、電力変換装置の主役であった。

水銀整流器は1900(明治33)年、米国のクーパー・ヒューイットが水銀アークの整流性を利用してガラス製水銀整流器を発明した。この研究には米国GE社や米国ウェスチングハウス社(WH社)が協力し、1911(明治44)年には500V40A級が製作され、ガラス製水銀整流器の技術が確立した。

しかし、ガラス製水銀整流器は陽極および陰極の導体をガラスに貫通させ封着する部分に弱点があり、機械的にも弱く、排気、化成、発熱の冷却の限界により大きな電流の整流器を作ることができなかった。

芝浦製作所(当社の前身)は1916(大正5)年、金杉工場の研究室でガラス製水銀整流器を蓄電池の充電用に使用していたが、1920(大正9)年にヨーロッパで鉄製水銀整流器の研究が始まり、当社でも文献調査を始めた。しかし、1923(大正12)年の関東大震災によって調査も一時中断した。

しかし、そのころ東京電灯がスイスのブラウンボベリ社(BBC社)から鉄製水銀整流器を輸入していた。たまたま運搬中に震災にあい、浅草、田原町の路上に無残に焼け壊れて転がっていた鉄製水銀整流器を当社の研究者が発見し、それを調査した。国産化とは技術の模倣ではなく創出から始まったのである。鉄製はガラス製に比べ高圧大電流化が可能だ。しかし鉄槽構造、真空漏れ、逆弧、陽極および陰極導体の絶縁と気密性の維持などゼロからの開発は困難を極めた。

当社は苦心の研究の末、1927(昭和2)年、国産初の600V、300kW電鉄用鉄製水銀整流器を完成させた。この鉄製水銀整流器は1個の真空鉄槽内に負荷電流を通す陽極を6個設けた。真空槽は2重壁とし、その隙間に冷却管を設け、冷却水により内部に発生する熱を吸収し水銀蒸気圧を適正値に調整した。運転時は真空内の部材からの放出ガスや鉄板溶接部からのわずかな空気洩れを排出する真空ポンプを常時運転した。

この整流器は盛岡電灯花巻温泉電軌鉄道花巻変電所に1927(昭和2)年に納入され、1945(昭和20)年まで電車の運転に使用された。その後、1930(昭和5)年に鉄道省が電車の直流電化を広めるため、水銀整流器の採用を決定し、1,500V、1,000kWを納入した。さらに当時の東京地下鉄道(株)から日本で最初の地下変電所用水銀整流器を受注するなど本格的に発展していった。

  • 鉄製水冷式単極水銀整流6陽極で構成(真空ポンプ付)

    鉄製水冷式単極水銀整流6陽極で構成(真空ポンプ付)

  • マツダガラス製水銀整流管

    マツダガラス製水銀整流管

日本初の電気洗濯機

電気洗濯機は、女性を家事重労働から解放した一番の立役者である。
わが国独自の小型化、節水性、静音化などの技術がさらなる発展を予感させる。

日本初の電気洗濯機

世界初の電気洗濯機は、今から約100年前、1908(明治41)年にアメリカのアルバ・ジョン・フィッシャー(Alva John Fisher)により発明された。これは、円筒槽の回転によって汚れを落とす「たたき洗い」を電化したもので、シカゴのハレー・マシン社(Hurley Machine Co.)が“Thor(ソアー)”ブランドで販売した。

わが国では、1922(大正11)年に三井物産がアメリカからこの“Thor”ブランドの円筒型洗濯機を輸入し、販売したのがはじまりである。その後、1927(昭和2)年に東京電気(当社の前身)が円筒型、続いて攪拌式電気洗濯機を輸入し、販売をはじめた。

1930(昭和5)年、芝浦製作所(当社の前身)は国産初の撹拌式電気洗濯機“ソーラー(Solar)”の製作を開始した。自動絞り機付きの洗濯機本体は、ハレー・マシン社から技術導入するとともに、攪拌翼についてはGE社の技術者ノーブル・H・ワッツ(Noble H. Watts)の発明(特許第99044号)を採用し、最先端技術を駆使した商品であった。攪拌翼は、アルミ中空体の3枚羽根が上から下に向かって20°の傾斜があり、底部は少し広がっている。毎分約50回、200°の往復運動を繰り返す。洗濯容量は6ポンド(約2.7kg)で、価格は370円と高く、小学校教員の初任給が約50円であった当時、一般の家庭での購入はできなかった。

その後、1948(昭和23)年、英国フーバー社(Hoover)が小型の噴流式洗濯機を発売し、後にシュリロ貿易を通して日本に輸入した。これを見て日本の各メーカーが開発に走り、1953(昭和28)年に商品化した。その後、洗濯機は節水型の渦巻き式が主流となり、勢いよく普及をはじめた。

そして1957(昭和32)年には、再びフーバー社が画期的な二槽式洗濯機を開発した。わが国で、これを日本流にアレンジし素早く商品化。一槽式から二槽式洗濯機へ、さらに全自動洗濯機、続いて洗濯乾燥機へと発展を続けてきた。

このように、洗濯機開発の歴史は外国企業からの技術吸収ではじまった。しかし、その後の開発努力によって、小型軽量化や節水性、静音化などの新しい技術が生まれ、わが国の風土に合った洗濯機へと進化してきた。しかも現在、国内では毎年約450万台の洗濯機が販売されているのである。今では、海外にも製造拠点を持ち、諸外国にも販売を行っている。(2011年時点)

この洗濯機の普及と発展が、わが国の女性(主婦)の生活を根本的に変えたといっても過言ではない。家事の中で、もっとも重労働となる洗濯作業が自動化され、女性の社会への進出を大いに助けている。もちろん、炊飯器、冷蔵庫、掃除機なども助けとなっているが、なんといっても洗濯機が女性を家事重労働から解放した一番の立役者である。

  • solar取扱説明書

    solar取扱説明書

  • 昭和30年頃の洗濯機ポスター

    昭和30年頃の洗濯機ポスター

日本初の電気冷蔵庫

国産第1号の家庭用冷蔵庫は、内容量125L、重量157kg。
金庫を思わせる堂々たる風格の立ち姿。

日本初の電気冷蔵庫

電気冷蔵庫は家電製品のなかでも歴史は古く、圧縮式の冷凍方式を世界で最初に開発したのは1834(天保5)年で米国の発明家パーキンスである。日本で初めて冷凍機を用いて氷を作ったのは1870(明治3)年で、現在の東京大学で高熱の福沢諭吉のために少量の氷を製造したことに始まる。これはアンモニア吸収式冷凍機で、実験室用のものであった。

現在のような家庭用電気冷蔵庫は1918(大正7)年、米国ケルビネーター社によって世界で初めて製造販売された。日本における電気冷蔵庫の歴史は1923(大正12)年、三井物産が初めて輸入した時から始まる。1927(昭和2)年、当社のエレクトロニクス事業の前身である東京電気が米国GE社製を三井物産経由で輸入販売しつつ、同時に国産化をした。また1929(昭和4)年、重電事業の源流である芝浦製作所が研究開発を始め、1930(昭和5)年、国産第1号の家庭用冷蔵庫(SS-1200)が芝浦製作所の東京工場(現:JR大井町駅前)で完成した。

この冷蔵庫は米国GE社製をモデルに研究開発したもので、容積は125L、重量157kgと金庫を思わせる堂々たる風格であった。密閉型首ふりシリンダー圧縮機と凝縮器および制御装置がキャビネットの上に露出したモニタートップ型が特徴である。圧縮機構は1/10馬力の4極単相誘導電動機が使用され、3本のスプリングによって密閉ケース内に支持され、騒音や振動を抑える構造になっている。また圧縮機内の冷凍機油に冷媒が溶け込むのを防止する加熱手段を設けた発明が施された。米国GE社から出向中の役員に「日本の技術力では、開発は無理である。」と言われたが、藤島亀太郎等の努力により国産化に成功した。

その後、幾多の検討を重ねて1933(昭和8)年、芝浦製作所が純国産電気冷蔵庫として発売を始めた。この頃は「電気冷蔵器」と呼ばれ、少し遅れて日立、三菱も販売するようになった。

当時、冷蔵庫といえば氷で冷やすのが一般的だったが、その氷冷蔵庫を持っている家庭も少なかった時代に当社が発売した冷蔵庫の価格は720円で、小学校教員の初任給1年分以上に相当する程、高価であった。

1935(昭和10)年には、圧縮機や凝縮器をキャビネットの下部に納めたフラットトップ型冷蔵庫が 発売され、この頃から「電気冷蔵庫」という呼称が定着していった。食品保存と製氷ができる電気冷蔵庫の機能は日本人のライフスタイルを大きく変え、今では除菌・脱臭をしながら鮮度を長持ちさせたり、野菜を生のまま冷凍できるなどさらに便利な機能を搭載している。

  • 芝浦電気冷蔵器カタログ

    芝浦電気冷蔵器カタログ

  • SS-1200のコンプレッサー構造図

    SS-1200のコンプレッサー構造図

日本初の電気掃除機

走行車輪がついた国産第1号の電気掃除機の価格は110円。
小学校教員の初任給約2か月分に当たる高級家電。

日本初の電気掃除機

「ほうき」に代わる電気掃除機はゴミも小さな塵も一緒に清掃したいという考えから欧米で考案された。最も原始的な掃除機は1858(安政5)年に米国のへリックが考案したじゅうたん用掃除機で、その後、1899(明治32)年、米国ゼネラルコンプレスト・エア&バキューム社が空気ポンプを利用したアップライト型真空掃除機を発明した。これは高速回転させた電動送風機を内部の空気の遠心力で移動させ、大気圧より低圧にしてゴミや小さな塵を吸引するという基本原理で、現在とほとんど変わらない画期的な製品だった。日本に輸入されたのは大正初期だが、当時はごく一部の家庭でしか使用されなかった。

その後1931(昭和6)年、芝浦製作所(当社の前身)がGE社製をモデルに開発した日本初のアップライト型真空掃除機VC-A型を発売した。価格は110円で小学校教員の初任給約2か月分に当たった。この掃除機の吸込用床ブラシとモーターが一体化した先端部には走行車輪がつき、軽く手で押すだけで掃除ができるよう工夫され、また掃除し易いように柄の角度も可変できる構造になっている。

モーターは100V直流および交流共用140Wが使用され、電気料は1日1時間使ったとしても1カ月45銭(当時10銭/kW)足らずとごく僅かだった。

柄は木製で床上、天井が掃除できる長さ89cmの柄がねじ込み式でモーターについている。家の鴨居やソファーの下などを掃除するには、クロームメッキ仕上げの75cmの金属パイプの延長管を使い、また掃除が困難な家具の隅や、引き出しの中など狭い場所の掃除用には付属のゴム製の細口管を使用する。ブラシは幅14cmの床および敷物用と幅22cmの衣服およびカーテン用の2種類がある。そして掃除機の性能を左右する収塵袋(現在は集塵袋)は埃を濾過させるフィルター効果と通気性を考慮し、布を縫い合わせた袋状になっており、袋の末端はゴミや塵が吹き出ないようアルミ金具で押さえた。

1937(昭和12)年の日華事変により生産は中断されたが、1947(昭和22)年にはVC-A型の走行車輪を取り除き、小型軽量化に改良したVC-C型をいち早く発売した。しかし電気掃除機の本格的普及は1955(昭和30)年以降となった。

国産化された掃除機は各企業の努力により家庭の必需品としての地位を固め、現在では単に部屋の汚れの清掃とその省力化だけでなく、私たちの健康に有害なダニやミクロレベルの塵埃まで除去できるまで進化し、頭脳を持った掃除ロボットまでも出現している。

  • 改良モデルVC-C型

    改良モデルVC-C型

  • 真空掃除機カタログ

    真空掃除機カタログ

日本初の蛍光ランプ

発熱がなく明るい照明が求められ、試作品の20W昼光色蛍光灯136灯が法隆寺金堂壁画を照らす。

日本初の蛍光ランプ

米国GE社のインマン博士が発明した蛍光ランプが実用化されたのは1934(昭和9)年であるが、一般への販売が始まったのは当社で量産体制が整備された1937(昭和12)年からであった。

早急に事業化しようと、1939(昭和14)年に3名の技術者(藤田文太郎、射和三郎、轟甚三)をGE社に派遣し、インマン博士から直接技術指導を受け、翌年には少量ながら蛍光ランプの製作に成功した。すべての部品が手作りで、GE社のインストラクションを頼りに試作が進められ、4本足の真空管のベースを取り付けて完成させた。

その後、国の紀元2600年記念事業の法隆寺金堂壁画模写事業において、熱がなく明るい照明として完成の域に達していた開発中の蛍光ランプが採用され、1940(昭和15)年8月27日、試作品の20W昼光色蛍光灯を136灯使用した。点灯方式はチラツキを避ける2灯用フリッカーレスが用いられた。これが日本で初めて蛍光灯が実用化された記念すべき日となった。

その後、翌1941(昭和16)年に蛍光灯を“マツダ蛍光ランプ”として、昼光色15Wと20Wを正式に発売した。15W、20Wともに管径は38mmで、全長は435mm、580mmだったが、明るさは現在の半分以下だった。1942(昭和17)年には、昼光色蛍光ランプの生産は月産約2,000本に達したが、1944(昭和19)年には軍需用に転換させられ、自動排気機の完成まで今一歩というところで、戦災のために焼失した。

戦時中は、発熱量の少ない蛍光灯として、潜水艦の照明用に耐震性の高い20W昼光色が、また航空母艦の着艦灯として12W緑色が採用されたほか、無影灯用としてほとんど全製品が海軍艦政本部に納入された。

戦後になると、真空管の製造拠点であった堀川町工場を本社に直結した工場組織に改め、まず1946(昭和21)年に誘蛾灯の生産から出発した。一般用蛍光ランプの生産開始の足がかりとし、1948(昭和23)年には昼光色蛍光ランプの生産も再開し、翌年には改良蛍光体を使った効率の良い白色ランプの開発とともに、光出力の大きい40W蛍光ランプを完成し、横浜で開催された貿易博覧会で点灯し、話題となった。

1951(昭和26)年には、蛍光ランプの明るさを世界的水準まで上げ、平均寿命も一挙に2倍の3,000時間をマークし、管端黒化の発生も抑制した。1952(昭和27)年には早期寿命推定法を品質管理に導入し、陰極物質の研究を重ね、米国で発表された耐熱性酸化物に代わる長寿命新陰極物質を開発した。1954(昭和29)年には平均寿命が7,500時間と向上し、明るさとともに外国主要メーカー製品と比肩することができた。

  • 国産初の蛍光ランプ(昭和15年)

    国産初の蛍光ランプ(昭和15年)

  • わが国最古の蛍光ランプスタンド

    わが国最古の蛍光ランプスタンド

世界最大の鴨緑江水力発電機

昭和13年、日本を取り巻く内外の情勢が緊迫の度を強めるなか、
水豊発電所用の水車及び発電機が発注された。

世界最大の鴨緑江水力発電機

昭和の初め、現在の北朝鮮地域の豊富な水資源に着眼し、赴戦江、虚川江、長津江などの水力電源開発を計画していた。この豊富な電力を用いて大々的に化学肥料を製造することを計画して朝鮮窒素肥料株式会社が設立された。この電源開発を進めたのが朝鮮水電株式会社や長津江水電株式会社である。

芝浦製作所と電業社原動機製造所(共に当社の前身)が、朝鮮水電株式会社から赴戦江第二発電所の立て軸フランシス水車2台を受注したのを手始めに、1942(昭和17)年までに当社は朝鮮水電株式会社および長津江水電株式会社から、1発電所を除く11発電所、35台の水車および発電機すべてを受注した。

これらの機器の多くは、従来の記録を大きく超える高落差・大容量のもので、受注を狙う欧米メーカーと国際入札で激しく競合したが、当社の技術に対する客先の信頼が厚く、このように大量の発注を受けた。

その後、満州と朝鮮の国境を流れる鴨緑江の水力開発が計画され、開発を進めた鴨緑江水力発電株式会社から、当時の世界最大容量機である水豊発電所向けに105MW水車7台および100MVA発電機5台が、1938(昭和13)年3月、当社に発注された。

この水車は立て軸フランシス水車で、7台のうち3台が50/60Hz両用機、2台が50Hz専用機、残りの2台が60Hz専用機で、落差82m、単機容量が105,000kWという世界最大のものであった。当時の世界最大容量機は、米国のボルダーダム発電所の水車の85,000kWであり、これを遥かにしのぐものであった。

1938(昭和13)年当時は、既に日本を取り巻く内外の情勢は緊迫の度を加えていた。そのため当社は注文決定と同時に、設計はもとより、資材の調達について各方面の素材メーカーの協力を得るなど、この画期的な大型水車の製造に対し様々な対策をただちに採った。

1938(昭和13)年9月、1号機の埋設部品が現地に発送され、翌1939(昭和14)年の初秋には1号機の本体が完成した。その後、この超大型の記録的水車を平均4.5カ月ピッチで出荷したことが記録に残されているが、資材と労力の不自由な戦時下においてはまさに驚異的なことであったと言える。

1941(昭和16)年9月に発電を開始し、発電記念式が行われた。この水車の完成に際し、当社の水車製造事業の生みの親であった元専務取締役大田黒重五郎が揮毫(きごう)した額に、この大事業を成し遂げた関係者一同の誇りと喜びを感じ取ることができる。

発電機についても、この記録的な大容量機を出荷前に総組み立てして回転試験をするための広大な新工場を建設した。1940(昭和15)年6月には、この工場で1号機の50/60Hz両用機の回転試験を実施し、性能並びに運転の信頼性が十分であることを確認した。

この世界最大容量発電機の完成は、多くの研究者・技術者の並々ならぬ努力による数々の技術的飛躍を経て、大容量化、高電圧化、大直径化、軸受および発電機全体の高性能化などの技術が次々と確立された結果であることは言うまでもない。

  • 大田黒重五郎書「昔日半馬力今日十四萬三千馬力世界第一」

    大田黒重五郎書
    「昔日半馬力今日十四萬三千馬力世界第一」

  • 建設中の水豊発電所用105,000kW水車

    建設中の水豊発電所用105,000kW水車

日本初の純国産の万能真空管「ソラ」

戦後、品質管理手法でデミング賞を受賞、
初代南極越冬隊長を務めた西堀栄三郎氏が開発。

日本初の純国産の万能真空管「ソラ」

当社は1916(大正5)年に真空管の研究に着手し、1917(大正6)年にわが国初の真空管オージオンバルブを完成、ここにわが国の真空管の歴史が始まった。

ついで、1924(大正13)年にラジオ放送が開始され受信用真空管の需要が本格化するにともない、1925(大正14)年以降、自動ステム製造機、万能グリッド捲線機、高周波電気炉、さらに自動封止排気機を輸入整備して真空管製造の近代的基礎体制を確立した。また、1928(昭和3)年にわが国で初めて酸化物陰極管の製作に成功、1933(昭和8)年になす形バルブをだるま形にするなど全面的に耐振構造への切替えを 行うと同時に新品種の開発を進め、1936(昭和11)年には当社の真空管生産品種は40種をこえるに至った。

この頃から、次第に戦争の準備段階に入った軍の要請により軍用真空管の開発に取り組み、1940(昭和15)年には超短波帯用エーコン管を完成した。

その頃、他社が独国テレフンケン社のST管をベースに開発した万能真空管(FM2A05A)は、製造努力にもかかわらず歩留まりの悪さが改善されず、絶対数が不足していた。そのため、海軍が真空管の製造を委託していた当社にも万能真空管(FM2A05A)の製造要請が来た。しかし、当時の西堀栄三郎技術本部長(戦後に南極観測隊の初代越冬隊長や品質管理手法でデミング賞を受賞)は製造の難しいことを理由に了承せず、当時の山口喜三郎社長の説得にも応じなかった。海軍としては何としても製造を受けさせるべく、西堀本部長を横須賀の追浜での会議に呼びつけ、国賊とまで罵った。そこで、同じ性能の万能真空管を一カ月以内に50個作ると約束した。

要求された万能真空管(FM2A05A)は電極にボタンステムを採用していたが、当社が得意としているピンチステムではプレートとグリッド間の静電容量(Cpg)がある値以下にならない問題があった。ところが実験室で真空管を壊して静電容量を測定中に解決のヒントが見つかり、代わりとして当時すでに航空機用として使われ始めていたGT管(RH-2)を原型に、1943(昭和18)年「ソラ」の開発に成功した。「ソラ」は大量生産できることを前提に設計され、材料も極度に不足している状況から「トタン屋根を剥しても作れる」ように考えられた。品質管理基準を完備し、徹底的に微細な部分に至るまで製造マニュアルを作成して「どんな素人でも製造可能」と言われるほど優れたものだった。しかし、1945(昭和20)年になると、工場は次々と爆撃を受けて廃墟になり、高度な真空管の製造機械を製造する余裕はなかった。そこで、この時代に合わせた半自動の製造機械を工夫した。必要なものは、ガラス細工とその排気管を焼きとる小さなバーナー、そして高周波電源だけであった。高周波電源には、円盤形の放電による軍用の発信機を使った。さらに、ガラス細工をするためのガスを求めて、山形や新潟など疎開先で真空管の製造を計画し、ある程度製造を始めたころに終戦を迎えた。

  • 万能真空管「ソラ」の組立作業教本

    万能真空管「ソラ」の組立作業教本

日本初の発電用ガスタービンを完成

戦前の高速魚雷艇用ガスタービンが、地下から掘り出され、
戦後、日本初の発電用ガスタービンとして生まれ変わった。

独立行政法人 海上技術安全研究所 所蔵 電気の史料館にて展示

独立行政法人 海上技術安全研究所 所蔵 電気の史料館にて展示

1943(昭和18)年、石川島芝浦タービン(現:当社のタービン部門)が、海軍から高速魚雷艇用エンジン開発の依頼を受け、その開発に着手した。当時、わが国にはまだガスタービンの技術はなく、欧米のわずかな資料をもとに、技術者たちは文字通り寝食を忘れて、その開発に取り組んだ。その甲斐あって、1944(昭和19)年には試験運転を行うまでになった。しかし翌年、終戦となり、このガスタービンを工場の空き地に埋めてしまった。終戦後、このガスタービンの開発を知った連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から、ガスタービンの図面を持って出頭せよとの命令があり、関係者は何か尋問されるのではないかと恐る恐る出頭した。ところが、とても丁重に迎えられ、しかも持参したその図面を売ってくれと言われ、関係者はまったく予想外の話に驚き、図面を渡すのもそこそこに、早々に退散したと伝えられている。

このガスタービンは当時の鉄道技術研究所(鉄研)の要請で掘り起こされ、1949(昭和24)年に日本初の発電用ガスタービンとして生まれ変わり、「鉄研1号ガスタービン」として命名された。その後、このガスタービンの軸流圧縮機、燃焼器、タービンなどの主要部分について詳細な研究が行われ、その成果は、わが国のガスタービン技術の発展に大きく貢献した。当社は、当初から海外企業との技術提携のもとに、国内外向けに多くの発電用ガスタービンを製作していた。第2次オイルショック以降の1980(昭和55)年ごろになると、発電効率を一段と高めることができるコンバインドサイクル(C/C)発電システムが注目されるようになった。これは、まずガスタービンで発電し、その排ガスを排熱回収ボイラーに導いて蒸気を作り、それで蒸気タービンを回して、さらにエネルギーを得ようとするものである。従来は、ガスタービン単独では排熱エネルギーが大きく、熱効率が低いため蒸気タービンに太刀打ちできなかったが、このコンバインドサイクル方式をとることによって、蒸気タービンより高い熱効率が得られるようになった。また、ガスタービンの燃料としてLNG(液化天然ガス)を用いることによって、排ガス中のCO2を低減できることから、現在ではLNGによるコンバインドサイクル発電が多く採用されるようになっている。

当社は、アメリカで多くの実績を持つGE社と1982(昭和57)年にガスタービンに関する技術提携を行い、大型発電用コンバインドサイクル(C/C)発電所の建設を開始した。その年、1,100℃級ガスタービンで構成される東京電力富津火力発電所1号系列向けに、1,000,000kW発電プラント(7軸で構成)の1軸を製造した。1990年代に入ると、ガスタービンの高温化による高効率化が進み、燃焼ガス温度は1,300℃級となった。1998(平成10)年には、中部電力新名古屋火力発電所7号系列1,458,000kW(6軸で構成)コンバインドサイクル発電プラントを完成した。

  • 組み立て中の1号ガスタービン

    組み立て中の1号ガスタービン

  • コンバインドサイクル発電システム

    コンバインドサイクル発電システム

日本初の磁気遮断器
(東芝マグネブラスト遮断器)の誕生

アークの性質上実現困難とも言われたが、前例のない新アーク制御でブレークスルー。

日本初の磁気遮断器

昭和20年代は、電圧3.3kV~6.6kV級の高圧遮断器としては、絶縁油を遮断媒体とした油遮断器(油入遮断器ともいう)が使われていた。

当社は1943(昭和18)年に磁気遮断器の原型となる曲隙型磁気吹消気中遮断器を開発した。この遮断器は遮断媒体に絶縁油を使用しないため、火災に対する懸念がないという特長があったが、それまで使われていた油遮断器に比べ外形寸法が大きかった。また、遮断あるいは開路する電流を利用して作られる磁束と、その時発生するアーク(アーク電流)の相互作用(フレミングの法則)によって、接触子間に発生したアークを引き延ばして冷却遮断すると言う遮断原理から、短絡電流のような大電流の遮断時には大きな消弧能力が生じるが、1,000A以下の小電流の遮断時には消弧能力が低下しアーク時間が極端に長くなると言う大きな課題があった。このため、この遮断器は商品化には至らなかった。

遮断媒体を使わない自力消弧方式遮断器の宿命といわれていた小電流の遮断に対しては、開閉動作時の可動側にピストンを固定部にシリンダーを取り付けたエアーブースター(空気吹き付け機構)を考案した。これは、開路動作によって接触子が開離した時に、閉路動作に伴ってピストンがシリンダー内で圧縮した空気流を可動アーク接触子へ吹き付け、接触子間に発生したアークをアークシュート(消弧装置)内へ押し込む方法で、これによってアーク時間を短くした。また、外形寸法の小型化に対しては、アークシュートを下向きに配置する構成によって、油遮断器と同等以下の容積に収めることができた。このアークシュートを下向きに配置する構成は前例もなく、アークの性質上実現困難ともいわれたが、綿密な検討と検証試験を経て課題を解決した。かくして、国産初の磁気遮断器が誕生したのである。

その1号機は、形式AKM-5、定格3,450V-600A、800A、1,200A-50MVAであり、1951(昭和26)年8月、東芝マグネブラスト遮断器という商品名でキュービクルに収納され、東京八重洲口のブリヂストンビルに納入された。この製品は、配電盤・器具関係の乾式化の一号製品でもある。

1953(昭和28)年には、気中遮断器の東芝マグネブラスト遮断器を収納したキュービクルを東京電力日比谷変電所へ、オール乾式変電設備として納入した。

定格は6,900V-1,200A-250MVAで、東芝マグネブラスト遮断器の技術的基礎を築いたものである。

磁気遮断器は消弧媒体に絶縁油を使わないので、火災に対する懸念がなく、保守点検が容易であり、また自力消弧方式のため、遮断時にサージ電圧を発生しないと言う特長から、需要が拡大し、モデルチェンジを重ねながら定格容量も拡大して、ビル施設や工業動力制御用から、火力発電所や原子力発電所の補機設備用として広範に使われるようになった。

このようにして、東芝マグネブラスト遮断器は、昭和30年~40年代にかけて全盛期を迎え、真空遮断器が登場するまで、このクラスの主力遮断器として、ひとつの時代を形成したのである。

  • 東京電力日比谷変電所納入品

    東京電力日比谷変電所納入品

  • 昭和29年製造中のマグネブラスト遮断器

    昭和29年製造中のマグネブラスト遮断器

日本初のテレビ放送機

NHKとの共同研究を進め、テレビ新時代の要請に
俊敏かつ果敢に対応。テレビ放送用各種機器で活躍。

日本初のテレビ放送機

当社のテレビの研究は1928(昭和3)年に始まった。この年は英国のベアードが初めてテレビジョンの実験を行ってから3年後に当たる。当初の走査方式はニポー円板を用いた機械的方法で、送像側は光電管によって光の明暗を電気信号に変換し、受像側ではネオン管の電流強弱により映像を再生していた。1930(昭和5)年米国でファルンスワース方式が発表されると、当社のテレビジョン研究の方向は全電子式走査方式に転換することになり1933(昭和8)年には走査線120本、毎秒像数20枚でフィルム送像の実験に成功した。

1937(昭和12)年になると、日本のテレビジョン研究もかなり充実し実験放送の開始が要望され、これに備えて日本のテレビジョン標準方式を審議するため1938(昭和13)年に電気学会にテレビジョン調査委員会が設置された。同年9月に暫定標準方式として走査線数441本、毎秒像数25枚、飛越走査、電源同期などが決まった。

その後紀元2600年に当たる1940(昭和15)年に、国際オリンピックを東京に招致しようとする計画がおこり、その実況をテレビ放送しようと企て、カメラ、送信機、受像機の開発が計画された。大電力送信管として陽極損失30kWの両端水冷管SN-628が開発され、42MHz、20kWのテレビ用超短波送信機が準備された。残念ながらその後の国際情勢の悪化によりオリンピックは中止となったが、この準備期間中の努力でテレビの総合技術レベルは著しく向上し実用化段階まで到達した。開発された各種装置は1939(昭和14)年、全国各地で公開され一般大衆へのテレビ知識の普及に貢献した。

現行のテレビ標準方式(525本、30枚、電源非同期)は1952(昭和27)年に制定された。この年、東京、名古屋、大阪地区に対するチャンネルプランも発表され、1953(昭和28)年2月1日にそれまで実験電波を発射していたNHK東京局が映像5kW、音声2.5kWをもって正式放送を開始し、8月には初の民間放送局として日本テレビ(NTV)が開局した。

テレビ放送用各種機器は1951(昭和26)年からNHKと当社の間で共同研究を開始した。日本初のテレビ放送機は正式放送の前年、1952(昭和27)年、大阪生駒山放送所に据え付けられ、京阪地区の実験放送に使用された。この装置は映像5kW、音声2.5kW、電源非同期型に設計され、真空管は新たに開発された6F50R(エクサイター)、7T24R(電力増幅)を使用した。当社はテレビ新時代の要請に俊敏かつ果敢に対応 し、カメラ、放送機、受像機まで殆どの機器を開発した。

  • TV中継装置 牧ノ原中継所全景

    TV中継装置 牧ノ原中継所全景

  • 東京-大阪間中継による最初に受信されたTV映像

    東京-大阪間中継による最初に受信されたTV映像

日本最大のかさ形水車発電機

急激に増加する電力の需要に対応すべく誕生した、
日本最大の72,500kVAかさ形水車発電機。

日本最大のかさ形水車発電機

当社が水車発電機を初めて製造したのは1894(明治27)年のことである。この水車発電機は京都水利事務所の発注による単相式60kVAという小容量のものであったが、日本で製造した水車発電機としては最初のものであった。その後、各地に水力発電所が建設されたがあまり容量の大きなものもなく、しかも外国製品が多く使用されていた。

このような状況の中で当社は水車発電機の製造に努力を重ね、大正時代に入って記録すべき製品を生み出すようになった。1913(大正2)年に製造した王子製紙千歳発電所の6,250kVA三相発電機は、当時画期的な記録品で世間の注目を集め、以後当社は国産水車発電機の大容量記録を次々に更新していった。

昭和に入ると水車発電機の製造は一段と活発化した。従来、固定子枠に用いられていた鋳物に代わり鋼板溶接枠を採用し、これにより固定子重量が約30%削減、さらに機械的な強さを増し、工程短縮と価格低下に成功したのである。また継鉄に13mm鋼板を使用した扇形鉄板積み重ね形を採用し、発電機の分割輸送を容易にする構造にした。

戦後、1951(昭和26)年になると日本の産業も発展の緒につき、電力需要の急増から水車発電機の受注も増加したが、その内容に大きな変化が見られた。開発する水力発電所はほとんど大型ダム方式となり大規模化した。さらに発電所建設をできるだけ経済的にするため、発電機の単機容量を増大し予備機を置かず、建屋についても機器の配置や組立分解機能を犠牲にしてでも床面積を少なくし高さを可能な限り低くすることが要求された。

これに応えるため、発電機の全高を極力小さくした「かさ形水車発電機」が出現した。かさ形水車発電機はスラスト軸受を回転子下部に配置したもので普通形のものに比べ、5~10%価格が安くなるところから欧米でも広く採用されるようになった。

一方、電力の需要は年を追って急激に増加したため火力を中心に電源開発が進められ、従来の水主火従から火主水従となるに及んで水力の使命が電力需要のピークを受け持つウェイトが多くなったことも発電機の大容量化をうながす一因となった。関西電力丸山発電所の7万2,500kVAの水車発電機は、このような事情のもとに、戦後初めて製造した「かさ形構造」の大容量機であった。

  • 佐久間発電所

    佐久間発電所

  • 奥只見発電所

    奥只見発電所

日本初のウインドウ形ルームクーラー

実験室の床にバケツで水をまいて温湿度を徹夜で測定、
開発から約10カ月という超スピードで発売。

コールデア

写真はコールデア

空気調和装置は、明治末期にアメリカ人キヤリアによって、今日の基礎が築かれた。その後、日本にも輸入された。1935(昭和10)年頃、日本の気候風土から冷房の必要性が高まり、空調はぜいたく品から健康と生活力向上のための必需品として評価されていた。当時市場では工業用や商業用は普及しつつあり、「冷房装置完備」という文字も目立ってきていた。これらは開放形圧縮機およびターボ冷凍機を使用しており、当時の記録では、1932(昭和7)年芝浦製作所(当社の前身)が大阪朝日ビルに180トン2台、1933(昭和8)年大丸大阪店に400トンのキヤリア製冷房装置を据え付けている。

家庭用の冷房装置もコンデンシングユニット(屋外機)とクーリングユニット(屋内機)の現地組み合わせと施工が徐々に始まっていた。1933(昭和8)年米国キヤリアブラウンスイック社が開発した可搬式冷房装置が市場に供給され人気を集めた。この装置は1936(昭和11)年に東洋キヤリア(現:東芝キヤリア)が150台を輸入し、芝浦マツダ工業(株)が一手に販売を担当し、その90%を販売していた。また、東京電気(当社の前身)が、1935(昭和10)年に米国GE製の家庭用小型冷房機を輸入販売した。これが当社の空調機器の歴史の始まりであった。

普及の途上であった冷房装置は、1937(昭和12)年に日中戦争が始まると、輸入禁止や民需品の生産販売の全面禁止など、軍需品のみの技術開発となった。

当社はそれまでに蓄積した技術を生かし、1941(昭和16)年に病院の冷房、工場の恒温恒湿槽、製氷装置などに応じた大容量冷凍機(30~50馬力)を開発・製造し、潜水艦用冷房機の開発も手がけた。終戦後、1946(昭和21)年には進駐軍用に冷蔵庫の生産を再開したことによって冷凍機産業が復活し、冷房機の生産も再開された。

当社では1950(昭和25)年に1/2馬力コンプレッサー2台を組み込んだ水冷式フロア形冷房機を開発した。その後、1952(昭和27)年に三菱、ダイキンが水冷式2馬力、5馬力のパッケージ形冷房機を発売した。当時の冷房機のほとんどは、進駐軍がアメリカより持ち込んだもので、ウインド形もアメリカ各社から輸入されていた。

当社はその当時輸入されていたウインドウ形を参考に、全密封形1/2馬力コンプレッサー2台を組み込んだ画期的な1馬力のウインドウ形の開発に着手し、1953(昭和28)年に日本初のウインドウ形ルームクーラーを「コールデア」の商品名で発売した。開発チームは、実験室の湿度を上げるために床にバケツで水をまき、室内外の温度と湿度を測定するなど、盆も正月もない連日徹夜に近い作業のなか約10カ月の短期間で完成させた。これが今日の空調機の基礎技術となり、本機をベースとして、順次開発を進め機種の拡充をはかっていった。

  • カタログ

    カタログ

  • 内部構造

    内部構造

日本初の計数形電子計算機

米国製コンピューターが8時間かけてできない計算を2時間で完了できる「TAC」を開発。
現在のコンピューター産業の礎を築く。

日本初の計数形電子計算機

世界初のコンピューター「ENIAC」は1945(昭和20)年に米軍の弾道計算用に開発され、18,000本の真空管が使用された。このニュースは1946(昭和21)年2月号の『Newsweek』に掲載された。

マツダ研究所(現:研究開発センター)の三田繁は、この記事からコンピューターについて考え始めていた。演算回路や制御回路の開発を行い基礎データの収集を始め、1951(昭和26)年には文部省初の研究費による「電子計算機製造の研究」へと発展し、東京大学(以下:東大)と共同で「TAC」開発がスタートした。

当初は実験機の開発を目指し、ハードを当社がソフトを東大が担当し、実用に可能な大型コンピューターを2年間で製造する計画だった。

ハード製作では、計算機用の高信頼性部品がなく、ラジオ用真空管を桁違いの高信頼性製品に開発した。この他、コンピューターの心臓部であるブラウン管メモリーの開発、ブラウン管蛍光面の物性的均一性、電子ビームの太さ、ビーム駆動特性の安定性の確保など開発は困難を極めた。さらに、32語長(1語長35ビット)/本のメモリー容量でランダムアクセス方式を採用したため、デジタル信号処理すべてをアナログ的な電子回路技術に依存しなくてはいけなかった。外部大容量メモリーとして磁気ドラムも開発し、駆動系には洗濯機用モーターを使用した。こうして1953(昭和28)年3月にプロトタイプが東大に納められたが、引続きマツダ研究所ではシステム調整が行われた。

終戦直後でもあり、手作りのパルス波形観測用オシロスコープは時間軸が不安定で正確な測定ができず、検証手段のない開発は致命的だった。プロトタイプと同時に「TAC」は当社小向工場で製造し、1954(昭和29)年4月に、東大に据え付けられたが、当時はシステムチェック方法が分らず、1955(昭和30)年を過ぎても稼働しなかった。その後「TAC」の全面的な見直しを始めたが、1957(昭和32)年暮れに、当社はシステム開発から離れた。

その後、東大が再設計し製造も行い、必要不可欠なシンクロスコープを入手した結果、不良現象の定量的な把握が可能となり問題点の改善が加速度的に進み、1959(昭和34)年1月21日に「TAC」は完成した。当社の真空管部品の信頼性も向上し、ブラウン管メモリーは米国標準局(NBS)公認で、当時世界最高と折り紙つきのRCA製より向上した。ブラウン管メモリーによるコンピューターは日本では「TAC」のみで、読み出し書き込みがすこぶる高速で、当時の輸入コンピューターIBM650が、8時間かけてもできなかった計算を2時間で完了した。高速性能の「TAC」は順調に稼働し、3年後の1962(昭和37)年7月に任務を終え廃棄された。

その後「TAC」開発に携わった人々がコンピューター産業を興し、現在の基礎を築いた。

  • 東大総合研究所 電気計算機制御卓

    東大総合研究所 電気計算機制御卓

  • 内部構造

    東大総合研究所 本体

日本初の自動式電気釜

自動式電気釜は、主婦の家事労働のかかる時間を大幅に減らし、
生活様式にも変化をもたらせた。

日本初の自動式電気釜

日本人の主食であるご飯を釜で炊くということは掃除、洗濯とともに、主婦の家事労働の一つであり、経験に基づいたノウハウによってご飯のでき栄えが左右されるものだった。タイムスイッチを使って、指定した時間にご飯が炊ける電気釜の出現は、炊飯を単に自動の電気釜に変えただけでなく、主婦の家事労働にかかる時間を大幅に軽減し、生活様式にも大きな変化をもたらした。

この自動式電気釜の発明者は当社の協力会社である株式会社光伸社の三並義忠社長である。1952(昭和27)年、当社家電部門の松本部長から自動式電気釜の相談を受け、開発に着手した。1955(昭和30)年に完成し、特許(昭30-12352)を取得したが、その3年間の研究開発は困難を極めたものであった。

X線で結晶構造を示す生澱粉をβ澱粉、加熱によって結晶構造を分解した「のり状(糊化)澱粉」をα澱粉と呼ぶが、消化しにくいβ澱粉を、消化吸収のよいα澱粉化させることがポイントだった。98℃位の温度を約20分間続けると、釜全体の米がα澱粉化しおいしく炊ける。強火で一気に炊きあげるのがおいしいご飯の炊き方だということが判明した。

そのため、釜の水が沸騰した後、タイマーで20数分後にスイッチを切れば、理屈上はおいしいご飯が炊けるはずである。しかし試作では、芯のあるご飯やお焦げもあった。原因は釜の外気温、釜の発熱量、米や水の量によって沸騰までの時間が異なるためだとわかった。そこで、釜が沸騰し始めたことを検知し、その20分後に正確にスイッチを切るにはどうすれば良いか、試行錯誤の末、編み出されたのが「三重釜間接炊き」という方法である。

外釜にコップ一杯(約20分で蒸発する量)の水を入れ、それが蒸発した時、釜の温度は100℃以上になる。それをバイメタル式のサーモスタットが検知できればスイッチが切れることに着想した。つまり、水の蒸発をタイマー代わりに応用したもので、日本人らしいシンプルで合理的なアイデアである。ただし、この実用試験は困難を極め、光伸社の社長夫婦が、自らの製氷会社の倉庫や、寒中には自宅の庭で実験を行い、苦労を重ねやっと完成にこぎつけたものである。

当社は家電部門の山田正吾をリーダーに販売に取り組み、1955(昭和30)年12月10日、完成した700台の販売を始めたが、家電販売店は半信半疑でなかなか乗ってこなかった。そこで既存ルート以外の電力会社の販売網などを開拓し、山田自らが全国の農村で実演販売をしてからは、爆発的に売れるようになった。その後、最高月産20万台を販売し、4年後には日本の全家庭の約半数にまで普及し、総生産台数も1,235万台を記録した。

  • 電気釜販売風景

    電気釜販売風景

  • ER-4チラシ

    ER-4チラシ

日本初の業務用電子レンジ

業務用から家庭用へ。
高い技術力を結集した電子レンジは、常にユーザーの視点で開発されてきた。

日本初の業務用電子レンジ

1956(昭和31)年に研究を始めた電子レンジは、1959(昭和34)年に国産第一号機を完成させ、翌1960(昭和35)年に開かれた大阪国際見本市に出品して注目を集めた。翌1961(昭和36)年に市販第一号機を発売し、汎用電子レンジのデビューとなった。翌1962(昭和37)年には国鉄の食堂車に採用され、1964(昭和39)年の新幹線開業時からビュッフェで暖かい本格的な料理を提供するという当時としては画期的なサービスを提供した。1965(昭和40)年からは一般の食堂やレストランで使える業務用普及型を発売し、一般のレストランで広く利用されるようになっていった。

さらに当社は1966(昭和41)年に世界初のオーブン内空焼防止装置アイソレーターを開発し、これを装着した新機種を世に出した。オーブンを空のまま作動させると高価なマグネトロンが破損し、寿命短縮の原因になっていたからである。マグネトロン1本で最大出力2kW、しかも調理に応じて出力が3段階に切り換えられる機種も同時期に発売した。

その後、家庭用の需要が急速に伸びてきたこともあって、1968(昭和43)年に家庭用高性能型、翌1969(昭和44)年に改良型を発売した。これらは当時の米国厚生教育省が指摘した電波もれの心配もなく、技術力の高さを示したものである。

1970(昭和45)年には扉を開く時の電波リークを完全に止めたドアロック機構と、オーブンの内部で異常温度を検出するオーブンサーマルスイッチを付けた新機種を発売し、翌1971(昭和46)年には、ドアロック機構を改良、使いやすいワンタッチハンドル方式を採用し縦開きを実現した。また同年、高周波出力1kW、翌年には1.8kWの業務用新機種を発売するとすぐに、山陽新幹線食堂車で採用された。

この年、横型横開きワイドオープンのイメージを大きく変えた600W型を開発した。さらに使いやすさを追究した400W型、料理カードを付けた600W型を続けて発売した。さらに1974(昭和49)年には回転棚とスタラファンの両方を備えた豪華型を発売し、安全性を考慮して扉ののぞき窓に透明プラスチックのバリアを付けるなど、消費者のニーズをきめ細かく反映した開発を続けている。

1968(昭和43)年からは輸出向け機種も開発し世界各国で使われた。

  • 家庭用電子レンジ

    家庭用電子レンジ

  • 電子レンジのカタログ

    電子レンジのカタログ

世界初のへリカルスキャン方式VTR

世界中の数億台のVTRに使われている
「ヘリカルスキャン方式」で、80年代の日本経済発展に貢献。

ヘリカルスキャンVTR(放送局用)

写真はヘリカルスキャンVTR(放送局用)

1953(昭和28)年に日本で白黒テレビ放送が始まり、ライブ放送以外は映像信号を電子的に記録・再生する機器が必要になった。その当時は映画フィルムに記録し、再生時はフィルム映像を電気信号に変えて使用していた。音声信号の記録は、オープンリールの磁気記録方式が商品化されたが、映像信号は音声の100倍もの信号帯域での記録が必要となり、テープ走行速度を19m/秒まで上げなければならない。しかし映像信号を映画フィルムに記録再生するには、長い処理時間と大きなコストがかかることから、磁気記録方式への期待が高まっていた。

米国のRCA、英国のBBC研究所はテープスピードを毎秒数メートルに上げて対応した。また、米国の俳優ビング・クロスビーが私財を投じ、映像信号を時分割し10個のトラックに同時記録する録画装置を作った。これらの実験で、テープと磁気ヘッドの相対速度を2桁向上できれば、映像信号を磁気記録できることがわかり、回転ヘッドの考え方が生まれた。

2インチ幅テープの幅方向に90度間隔で取り付けられた4個の回転ヘッドを使い、それぞれ4分の1だけ記録再生する4ヘッド録画方式は、1956(昭和31)年に米国のアンペックス社が発明し、実用機開発に成功した。

しかし、4個のヘッドからの1個の信号をつなぎ合わせて1画面を作るため、ヘッドの特性差により色ムラの発生や、つなぎ目が目立つ欠点があり、当社は1954(昭和29)年から斜め回転ヘッドを使った記録方式の研究に取り組んだ。2インチ幅テープに斜めに長いトラックを形成すると、1画面を1つのヘッドで1本のトラックに継ぎ目のない記録が可能になる。このヘリカルスキャン方式は、マツダ研究所澤崎憲一博士の発明である。

常にヘッドがテープに接触している状態で安定的に走行させるのは非常に難しい。実験を重ね1959(昭和34)年9月に実験機(当社製VTR1号機)を公開すると、世界中で注目を浴び、ロサンゼルスのアンバサダーホテルで行われた米国映画テレビ技術者協会(SMPTE)の招待講演で発表し大きな反響を得られた。放送用VTRは互換性の問題があり、標準方式としてアンペックス社の4ヘッド方式が採用されたが、工業用VTRには製造コストが1/10以下というメリットがあって、当社のヘリカルスキャン方式が採用された。1969(昭和44)年には標準化されたオープンリールの統一I型VTRが開発され、ヘリカルスキャン方式VTRが民生用に商品化された。その後、カセット化されたβ(ベータ)方式、VHS方式の家庭用ビデオにもこの方式が採用された。世界中で数億台のVTRに使われ、放送用もすべてへリカルスキャン方式が使われている。このヘリカルスキャン方式VTRは、世界に通用する技術として高く評価され、1980年代の日本経済の発展に大きく貢献した。

  • ヘリカルスキャンVTR(白黒)澤崎博士

    ヘリカルスキャンVTR(白黒)澤崎博士

  • 統一 I 型VTR

    統一 I 型VTR

日本初のトランジスター式テレビを開発

当時は困難とされていたテレビのトランジスター化に挑み、
東芝製の純国産トランジスターで夢を実現。

日本初のトランジスター式テレビを開発

1953(昭和28)年にテレビ放送が開始されて以来、テレビ受像機には真空管が使用され、テレビのトランジスター化は困難とされていた。当時のトランジスターはラジオに使えても、テレビに使用するには高周波特性や耐圧が低く、また扱える電力が小さいなど真空管と比べ性能が不十分であったからだ。真空管もトランジスターも電子が主役の能動素子だが、結晶中の電子を扱うトランジスターは半導体という物理学的な基礎研究からトランジスター構造の細かい作り方までの技術革新が必要だった。点接触型から始まったトランジスターは合金型、成長型と進展し、信頼性と再現性(歩留まり)という条件をクリアした「使いものになるトランジスター」つまり拡散法によってベースの厚さを薄くしたメサ形(スペイン語で台地)トランジスターの登場によって、テレビのトランジスター化の機運が高まってきた。

当社はさまざまな課題を克服し、1959(昭和34)年に日本初のトランジスター式テレビを開発した。ブラウン管には90度偏向8型(20cm角型)を使用し、高圧整流管の他は全てトランジスター化し、ダイオードを含め32石全て東芝製の純国産トランジスターを使用した。電源は22Vと6Vのバッテリーを搭載し、消費電力は真空管式テレビの約1/3の30Wを実現し、重量もトランス付き受像機の半分(14.5kg)と小型軽量化を図った。トランジスターは、100MHz近辺の周波数で十分使用可能な高周波特性を改善したVHF用トランジスターを開発した。また、大きな電力を必要とする水平偏向回路のために、高耐圧大出力トランジスターを開発した。さらにトランジスターの開発と平行して偏向電力を軽減するため、新たな受像管、回路、部品を開発した。1959(昭和34)年3月4日、東芝本社(当時の銀座ビル)で社外発表した。その当時、米国ではモトローラ社およびGE社のみが前年に試作発表していたが商品化はされておらず、当社の技術力の高さと先進性を世界にアピールした。

さらに1960(昭和35)年には高圧整流用のシリコン整流器を開発し、ブラウン管以外を全て半導体化した国産初のオールトランジスターテレビを開発した。このオールトランジスターテレビのブラウン管アノード(陽極)には、一般の受像機と同じように水平出力回路で発生するパルス電圧を利用している。高圧発生トランスによって約40倍に巻き上げ、特別に開発したシリコン整流器2本を使って倍電圧整流して6kV、100μAを得ている。従来のトランジスター受像機では高圧整流は真空管を使用しているが、このセットは特に開発したシリコン整流器(M8317A)を使用し、全半導体化受像機を実現した。またこのセットは交流電源100Vと直流電源12Vでの使用が可能で、交流で使用する場合の電源トランス、整流器などを全て内蔵し、交流電源で電池の充電にも使用できた。

  • 画面に映ったテスト映像

    画面に映ったテスト映像

  • 読売新聞の記事(1959年3月5日朝刊):(社)日本新聞協会 新聞ライブラリー所蔵

    読売新聞の記事(1959年3月5日朝刊):(社)日本新聞協会 新聞ライブラリー所蔵

日本初のカラーテレビ受像機

美しい画像を追求し、繰り返されるテスト。
21型丸形受像管から、純国産17型角形受像管へ。

日本初のカラーテレビ受像機

白黒テレビ誕生から7年後の1960(昭和35)年9月にカラーテレビの本放送が始まった。当社は1950(昭和25)年からカラーテレビの研究に着手し、カラーテレビの本放送開始に先駆け日本初のカラーテレビ受像機21型D-21WEを開発し、7月1日に市販を開始した。翌1961(昭和36)年には国産カラー受像管純国産カラーテレビ17型17WGを開発した。1953(昭和28)年12月、米国での標準方式のNTSC方式採用が決まると、NHK技術研究所を先導に、各メーカーの技術研究部門はNTSC方式の研究に注力した。1950年代後半から60年代にかけ白黒テレビの需要が急速に拡大するなか、当社ではカラーテレビ開発も全社的な取り組みと積極的人材投入が行われた。白黒テレビのライセンスに包括して送られてくる米国RCAの資料と文献をもとに、NHK技術研究所へ日参し研究結果を確認した。米国のキーコンポーネンツをもとに、明るさ、コントラスト、色彩や解像度の向上を求め、回路や部品を一つ一つ決め試作機を作り、何度も手直ししながら動作確認をした。総合評価に必要な信号源はNHK技術研究所から毎週金曜日に出されるUHF(669MHz)の試験電波を小向工場屋上のアンテナで受け、受像機テストを繰り返した。

当時、21型の丸形受像管は米国製が主力だったが、日本の家庭に合った大きさと重量を考え、純国産のカラー受像管は17型の角形とし、1957(昭和32)年5月にNHK技術研究所を中心に国内の受像管メーカーと部品材料メーカーが集まって「カラー受像管試作委員会」が発足した。21型のRCA社製丸形受像管の調査・研究に、ガラスバルブ、シャドウマスク、蛍光体、フリットガラス、電子銃などの部品材料類や露光台などの設備、受像管組立技術の開発と試作が行われた。マツダ研究所ではカラー受像管の研究が行われ、17型の開発・商品化は管球事業部が担当した。三色蛍光面製作やフリットシール(ガラスのハンダ付)など難問を克服し、1958(昭和33)年12月25日、17型角形カラー受像管の原型が誕生した。

2カ月後の1959(昭和34)年2月18日には、試作委員会で製作された純国産部品を使用した17型カラー受像管430AB22を完成させ、国産第1号として公開発表した。翌1960(昭和35)年7月に、17型17WGに搭載し名実ともに純国産カラーテレビ受像機として世に送り出した。 カラーテレビ用真空管のラインアップは当社で段階的に揃えていき、その他数多くの部品は部品メーカーと勉強会をもち回路理論、物性論、スペース性、信頼性、原価などの議論を交わしながら仕様をまとめた。カラーテレビ受像機はこうして東芝小向工場に設置された専門工場で生産されたのである。

  • カラーテレビ製造ライン

    カラーテレビ製造ライン

  • カラーテレビのカタログ

    カラーテレビのカタログ

日本初のマイクロプログラム方式
コンピューターの開発

演算速度は他のコンピューターに比較して数百倍。
その圧倒的な速さに当時の京都新聞に驚きの記事。

日本初のマイクロプログラム方式コンピューターの開発

1961(昭和36)年、当社は京都大学と共同で「新方式電子計算機」の開発に取り組み、パイロット計算機を完成させた。京都大学の頭文字“K”と東芝の“T”を組み合わせて“KTパイロット計算機”と名付けられた。この計算機には、国産のコンピューターとしては初めて薄膜記憶装置を実装した。また新しく開発したシリコンのメサ型トランジスターを採用した高速度基本回路を用い、並列非同期式高速演算方式を採用した。

この「新方式電子計算機」とは、日本初のマイクロプログラム方式コンピューターで、電子計算機の命令体系を自由に変えて、種々の目的に従った電子計算機システムを一つのハードウェアで実現しようという試みである。このマイクロプログラム方式はイギリスのケンブリッジ大学数学研究所(後のコンピューター研究所)のモーリス・ウィルクス博士が1951(昭和26)年に提唱したもので、高速な固定メモリー(ROM)の上で特殊化されたプログラムを使いコンピューターの中央処理装置(CPU)を制御するという考え方を発展させたものである。現在では一般化している固定メモリー(ROM)による電子計算機制御の最初であった。

しかも、この固定メモリー(ROM)を可変にするという考え方で、マイクロプログラム用の固定記憶装置はダイオードによる記憶装置を用い、可変記憶装置としてはパッチボード方式およびフォトトランジスター(光センサー受光デバイス)による独自方式を用いた画期的なものであった。

このKTパイロット計算機は非同期方式で、通常の一定周期のクロック信号を持たず、代わりにマイクロ命令ごとにそのマイクロ命令の実行時間を指定するビットを持たせている。そこで指定されたビットに対応する遅延線の出力を感知することによって、そのマイクロ命令の実行を終了し、次の命令に移るという制御方式を用いた。

当社が開発したシリコンのメサ型トランジスターを使った高速基本回路と非同期制御方式の採用によって、その当時のコンピューターに比較して1桁以上の高速演算を実現していた。特に、自然対数の底eや円周率πの計算では可変マイクロプログラムに演算用のマクロ命令を追加することで、演算時間を大幅に短縮することができた。

1962(昭和37)年8月、当時の西独ミュンヘン市で開催された情報処理国際連合(IFIP)の会議で、この研究成果を発表した。すると、IBMがSystem/360を発表する前でもあり、世界最高速の電子計算機として高く評価された。1963(昭和38)年12月15日付けの京都新聞には、その圧倒的な演算速度に驚嘆した記事が掲載された。その後、KTパイロット計算機を原型として、科学技術用の大型汎用計算機TOSBAC-3400が開発された。

  • 現存するKTパイロット計算機の一部

    現存するKTパイロット計算機の一部

日本初のスプリット形ルームエアコン

カーエアコンのセルフシーリングカップリングをヒントに
国産第1号のスプリット形ルームエアコンを開発。

写真はスプリット形ルームエアコン室内機(量産型)

写真はスプリット形ルームエアコン室内機(量産型)

スプリット形ルームエアコンは、1961年(昭和36)年4月に当社が業界に先駆けて発売した「CLU-7I」(室内機)と「CLU-7H」(室外機)が、日本初である。その後、新機種の開発を進め、機種構成の拡大をはかり、冷房機能だけのルームクーラーから、冷暖房兼用のルームエアコンへの脱皮を行い、年間を通じての空調機器として機能するようになった。当時ルームクーラーはウインドウ形、水冷フロア形が主流であり、その据え付けはビルの事務所、店舗などが多く、一般家庭用としては家屋の構造などの制約もあり、普及は伸び悩みの状況であった。

そこで、業務用冷凍機のようにクーリングユニット(室内機)とコンデンシングユニット(室外機)を分離して、配管工事を現地施工する方法を考えたが、一般電気店では溶接を伴う施工は困難であったので、対応に苦慮していた。そんな折、当時のカーエアコンの開発製造を行っていた柳町工場で、新開発のカーエアコンの冷媒配管に溶接工事のいらないセルフシーリングカップリングを採用したところ、良好な成績であったので、家庭用エアコンにもこの方式を採用することを検討した。

このセルフシーリングカップリングは米国エアロクイップ社が航空機部品として開発した方式で、技術提携していた横浜ゴム(株)から柳町工場に売り込みがあったものだった。これを使用すれば現地で冷媒ガスの注入や配管の溶接工事をしなくても冷凍機工事ができることが分かり、早速試作を行った。3/4馬力コンプレッサーを使用し、クーリングユニット(室内機)とコンデンシングユニット(室外機)に分割し、配管にセルフシーリングカップリングを付け、様々な実験を重ねた結果、ガス漏れもなく、動作も確実で実用に耐えうることが分かり商品化を計画した。

1959(昭和34)年柳町工場にてルームクーラーやカーエアコンなどの部品や機能を様々な角度から比較検討して開発されたものは現在のスプリット形ルームエアコンの原型となっている。これらの実験は、現在のような自動化設備もなく、実験グループが食塩やビタミン剤の配給を受けながら、高温多湿の実験室で苦労の末成功したものである。そして、1961(昭和36)年に試作機の3/4馬力から冷房能力を1馬力にアップし発売した。当時エアコンの生産は柳町工場から富士工場に順次移管されつつあったが、新開発商品ということで初ロットは柳町工場で生産された。その後、富士工場に移管され、次々と新機種を開発して機種構成は大幅に拡大された。その間、室内ユニットは壁掛け形が開発され現在の主流となっている。また、機能面では1971(昭和46)年に除湿タイプ、その翌年にヒートポンプタイプが開発され、家庭用エアコンの省エネの先駆けとなった。

  • スプリット形ルームエアコン室外機(量産型)

    スプリット形ルームエアコン室外機(量産型)

  • 初期のスプリット形エアコン室内機

    初期のスプリット形エアコン室内機

日本初のカラー用イメージオルシコン

戦前のアイコノスコープから、戦後のイメージオルシコンまで、
一貫して日本の撮像管の開発をリード。

日本初のカラー用イメージオルシコン

1928(昭和3)年に当社のマツダ研究所でニポー円板を用いて、機械的走査方法によるテレビジョンの研究が始まった。当社の撮像管の歴史はこの時に始まったと言うことができる。しかし、この機械的方法では、テレビの将来性を見通すことが困難であったため、翌年には一時この研究を中止した。その後、浜松高等工業学校のブラウン管式テレビやファーンズワース(Farnsworth)の送受両端ともブラウン管による方法などの発表があり、これがきわめて有望視され、当社も再び撮像管の研究を開始した。

1931(昭和6)年に米国RCA社において、ツヴォルリキン(Zworykin)が独創的な撮像管アイコノスコープを発明した。当社も1934(昭和9)年にアイコノスコープの製作を始め、性能の向上に努めるとともに、送像・受像方式に各種の改良を施し、テレビ技術分野は着々とその成果を広げていった。

1937(昭和12)年には、さらに感度の良好なテコスコープを開発、撮像に一大偉力を発揮した。翌年、東京電気無線株式会社との共同研究の態勢が確立され、当社のテレビは一大飛躍をとげ、1939(昭和14)年に髙島屋で公開放送を行い、多大な反響を呼んだ。しかし、太平洋戦争へと戦線が拡大するに伴い、テレビ研究は困難な状況となり、撮像管はもちろんテレビ全般の研究も中止のまま終戦を迎えた。

戦後の混乱が次第におさまるにつれて、テレビに関する一般の関心も高まり、当社の研究も再開された。これより先、アメリカでは1946(昭和21)年RCA社のローズ(A,Rose)その他によって、撮像管の決定版ともいうべきイメージオルシコンが発明された。テレビの今日の隆盛はひとえに、イメージオルシコンに負うといっても過言ではない。当社もこれに注目し、1951(昭和26)年からマツダ研究所において研究を開始した。

元来この管は電子管中でももっとも高度の製造技術を要求されているもので、これの完成には多大な困難が伴った。一方、当社とは別に研究を進めていたNHK技術研究所とも共同研究を行うことになり、1957(昭和32)年に、初めて外国製品に劣らぬ当社製イメージオルシコン5820が完成、撮像管の歴史上特筆すべき年となった。その後、カラーテレビ放送の本格化につれてカラー用撮像管の使用数も相当増加していたが、すべて輸入撮像管に依存していた。そして、撮像管の歴史にとってはまさに革命時代ともいうべき1961(昭和36)年を迎えたのである。この年には優秀な撮像管を続々と開発、ついに日本初のカラー用イメージオルシコン7513を完成した。これはフィールドメッシュを入れ、ターゲットとメッシュの間隔を狭くし、かつ部品材料に細心の注意を払って組み立てられており、カラー用として3本1組で使用するとき、優れた性能を発揮する。さらに1962(昭和37)年には最新の設備を備えた新しい撮像管工場を完成し、品質・数 量ともに飛躍的に発展した。

  • 初期のテレビ用撮像管アイコノスコープ

    初期のテレビ用撮像管アイコノスコープ

  • 初期のテレビ用撮像管イメージオルシコン(5820)

    初期のテレビ用撮像管イメージオルシコン(5820)

日本初の原子力用タービン発電機

日本に初めて原子力発電の火が灯って半世紀。

日本初の原子力用タービン発電機

日本初の試験用原子力発電として、日本原子力研究所(現:日本原子力研究開発機構)が米国GE社から導入した動力試験炉(12.5MW)を建設することを決定した。当社はタービン発電機を納入したほか、制御棒駆動機構を含む原子炉の制御系を担当し、発電所の建設など実務的な経験を蓄積した。この試験炉は1963(昭和38)年10月に初発電を行い、日本の原子力発電の第一歩をしるした。

翌年、GE社およびWH社が、経済性でも原子力発電は火力発電に十分太刀打ちできると発表したのを受けて、将来の石油供給に不安を感じていた先進諸国が競って導入をはじめ、日本の電力会社も米国から原子炉を導入することになった。

当社もGE社の沸騰水型原子炉(BWR)の技術を導入し、商用原子力発電所の建設を進める準備を始めた。GE社を中心とする沸騰水型原子炉(BWR)の建設には日立製作所も参加し、WH社を中心とする加圧水型原子炉(PWR)を製作するグループには三菱グループが参加した。

日本初の大型商用原子力発電所として、1966(昭和41)年4月に着工された敦賀発電所(357MW)は、GE社がターンキー契約で建設を行い、当社が格納容器、タービン補機の製作を担当したほか、プラント建設にも参加した。1970(昭和45)年3月に運転を開始し、世界最短工期などの成果は高く評価された。また敦賀発電所と同じくGE社から輸入された福島第一原子力発電所1号機(460MW)の建設にあたって、当社は原子力圧力容器、炉内機器などの原子炉系設備を分担製作し、敦賀発電所の製作経験と合わせて発電所全体の設備経験を習得した。

さらに、福島第一原子力発電所2号機(784MW)は、GE社が原子炉およびタービン発電機の主機を供給、当社はBOP機器(Balance of Plant)を製作し、納入したほか、配管、配線工事を含む全プラントの据え付けを担当した。この2号機は1974(昭和49)年7月に全出力運転試験を完了し、発電を開始した。また、3号機および5号機は、同2号機と同容量、同一設計で、ともに当社が主契約者としてプラント建設から製作、試運転まで担当し、国産プラントとして9割以上の機器を国産化した。

当社は、次世代を担う改良型沸騰水型原子炉(ABWR)の開発を早くから目指しており、1975(昭和50)年には原子炉に内蔵されるインターナルポンプや改良型微調整制御棒駆動機構(FMCRD)などの採用を提案し、その開発を進めた。その後、東京電力のバックアップもあり、GE社と日立製作所の3社で共同開発を進めることになり、実証試験については国の支援を受けながら20年の歳月をかけて、原子力発電所の安全性と信頼性を追求してきた。その結果、当社、日立製作所、GE社の3社はABWRの初号機となる東京電力柏崎刈羽原子力発電所6号機と7号機を共同で建設し、1996~7(平成8~9)年に無事運転を開始した。

  • 東京電力 福島第一発電所1号機の炉内構造物

    東京電力
    福島第一発電所1号機の炉内構造物

  • 日本原子力発電 敦賀発電所1号機建屋と原子炉格納容器の建設

    日本原子力発電
    敦賀発電所1号機建屋と原子炉格納容器の建設

日本初のフェーズドアレーアンテナ(P-AA)

最初の東芝方式電子走査アンテナの研究は高速飛翔体をレーダー追尾するために開発され、
機械方式の性能を上回ると期待された。

日本初のフェーズドアレーアンテナ(P-AA)

アンテナは空間を介して必要な電波を受信し放射する機能を持っている。電波利用は通信、放送やレーダー、リモートセンシングなどと他分野にわたり、それぞれの役割に応じた特性のアンテナが必要となる。通信、放送では、雑音や不要波も存在する中から必要な信号だけを受信する必要がある。レーダーでは、高速な車や飛翔体を追尾するために、放射ビームを高速に走査することになる。

このような性能を実現するには、柔軟性に富むアレーアンテナが適しており、その実用化は各分野で期待が大きかった。

アレーアンテナ(AA)は小さなアンテナ素子を直線や平面状に複数個並べ、それぞれの素子に所定の振幅・移相の高周波信号を給電する。各素子から放射された電波を空間で合成すると放射指向性が得られ、振幅や移相を制御することでさまざまな指向性が作れる(指向性合成)特長がある。最初のアレーアンテナ(AA)の研究は高速飛翔体をレーダー追尾するために1964(昭和39)年に開始されたフェーズドアレーアンテナ(P-AA)である。それまでのアンテナ本体を機械的に回転させてビーム走査を行う方式に代わり、アンテナを回転させずに電子的に高速ビーム走査できる電子走査方式は、機械方式の性能を上回るものとして実用化が待望されていた。

最初の実験装置は9素子テーパーロッドアンテナで作られた。各素子の移相制御はReggia Spencer型フェライトアナログ移相器を使い、フェライトにのこぎり歯状電流を与えて移相量を変化させる方式であった。この東芝方式のアナログP-AAは温度などの環境変化による放射特性劣化に泣かされたが、わが国最初のP-AAとして名を残すことになった。この放射特性劣化の課題を解決するため、移相量を安定して制御できるようにデジタル化したデジタル移相方式の開発を1968(昭和43)年頃から始めた。デジタル化により周期的な移相量子化誤差が発生し、アレーアンテナの放射指向性が劣化する問題には、新たに二次位相給電方式を考案した。この方式で量子化誤差が周期的に現れることを避け、走査角によらず放射指向性の劣化を少なくすることができ、実用化に道を開いた。P-AAは1977(昭和52)年から量産され、現在もより高度なレーダー追尾技術の要として開発が続けられている。

その間、AAの指向性合成給電法の研究も行われた。指向性合成を困難にする要因は素子間の電磁界結合にあり、結合を考慮すると実時間で任意指向性合成を実現する給電方法は困難とされていた。1970(昭和45)年初、高周波入力信号の振幅・位相情報を失わずデジタル信号を変換しミニコンピューターで指向性合成を行う実験の情報を入手し、この技術と信号処理技術を結び付けて実時間指向性合成ができることに気付いた。これが信号処理アレーアンテナ研究開発の動機となり、1977(昭和52)年のわが国初のアダプティブアンテナの開発につながった。現在、信号処理アンテナはスマートアンテナやMIMO(Multiple InputMultiple Output)に発展し、レーダー/通信分野の必須の技術として開発を続けている。

  • Reggia Spencer型フェライトアナログ移相器

    Reggia Spencer型フェライトアナログ移相器

日本初の真空スイッチと縦磁界電極で大容量化

当社のプラズマ研究から「縦磁界電極」の発見があり、
「真空遮断」が受配電の分野で世界の標準遮断器となった。

日本初の真空スイッチと縦磁界電極で大容量化

電流の開閉に使う遮断器や開閉器では電流遮断時に接点間でアークが発生するが、それを消すために油、高圧空気、SF6ガスなどの消弧媒質が用いられてきた。これらは燃えたり、遮断時に耐え難い音がしたり、地球環境への悪影響などの欠点があった。当社は、真空中で電流を遮断する真空遮断技術が理想的であると考えて独自に開発を開始した。1965(昭和40)年、日本で初めて真空中で電流を遮断する真空スイッチ (7.2kV100A)の製品化に成功した。

真空遮断の原理は19世紀末イギリスで特許になっているが、第2次世界大戦後までは実用化できなかった。戦後、米国GE社がこの技術にチャレンジしてから、各社で競ってその実用化に注力したが、技術的に解決しなくてはならない幾つかの問題を抱えていた。技術者たちはこれらの問題点を一つひとつ確実に解決していき、最後に残ったのが遮断性能の不足であった。いろいろ工夫しても、30kA程度しか遮断できず、適用範囲に限界があり、期待に反して「とても使い物にならない」という評価になりつつあった。何とか遮断性能を向上させようと必死の努力を続けている技術者たちに、1972(昭和47)年に朗報がもたらされた。当社研究所でのプラズマの磁気制御の研究や電流遮断時のアーク現象を直接観測できる装置を使った研究などの成果として、電極自体にコイルを取り付けアークと平行に強力な磁界を加えて、荷電粒子を磁界中に閉じ込め、電極全体に平等に分散させると、遮断性能が飛躍的に伸びることが分かった。

これで立ちはだかっていた障害は除かれ、さらにこの「縦磁界電極」を使って200kAの大電流遮断に成功したという試験結果を当社が発表した時には、今までこの技術に否定的だった欧州の学会は仰天し、遮断技術開発のかじを真空遮断に大きく切ることになった。今では真空遮断器は中圧(3kV~70kV)級のすべての用途に適用できるようになり、1981(昭和56)年に開発した定格電圧13.8kV、定格電流3,000A、遮断容量2400MVA(遮断電流100kA)という世界最大の真空遮断器VGB2-10Q240は世界的な反響を呼び、共同開発会社の電源発株式会社と共に電気学会進歩賞を受けた。さらに縦磁界電極を使うと真空バルブを小型化できるためコストダウンが図られ、一般需要家で用いられていた廉価、小型の油遮断器に取って代わる小型で手動操作できる汎用真空遮断器を業界に先駆けて開発し、建設大臣賞を受賞した。さらなる適用範囲の拡大に向けて高電圧化の研究も盛んに行い、核融合設備JT-60用に開発した直流用真空遮断器(44kV-130kA、開閉寿命4,000回)の技術は、従来気中遮断器の独壇場であった電鉄用直流遮断器の真空化にも応用されている。

  • VGB2-10Q240

    VGB2-10Q240

  • 縦磁界真空バルブ

    縦磁界真空バルブ

  • 縦磁界電極上に分散したアーク

    縦磁界電極上に分散したアーク

世界初の大容量静止型無停電電源装置

電力用半導体素子(サイリスター)の開発で大容量化を実現。
現在の高度情報社会を支える無停電電源システムの基盤になった。

世界初の大容量静止型無停電電源装置

コンピューターをはじめとする情報処理システムや通信機器に安定した電力を供給する装置として以前は回転型のモーター・ジェネレーター装置(MGセット)が使用されていたが、1964(昭和39)年に当社は初めて電力用半導体素子のサイリスターを適用した静止型無停電電源装置(容量は5kVA)を実用化した。

3年後の1967(昭和42)年には200kVAという大容量無停電電源装置を実用化し、1秒の停電も許されない航空機の発着・管理などを行う東京国際空港羽田飛行場の管制システムに採用された。

基本機能は、常時商用の交流電源を受電し、これをシリコン整流素子で直流に変換後、サイリスターインバーターで安定した交流電力に変換して負荷に供給する。また、これと同時に充電器によって蓄電池を充電しておくことで商用電力が停電した際、直ちにその蓄電池からサイリスターインバーターに直流電力を供給し、インバーターは停電することなく交流電力を負荷に供給し続けられる。また、停電によって蓄電池の電源を使い果たす前に、商用電源とは別に備えた非常用自家発電装置を起動し交流電力を作り、停電中の商用電源に代わって交流電力を供給し、運転継続できるシステムである。

当時は電圧や周波数が安定した電源装置という意味合いで定電圧定周波数電源装置(CVCF)と称されていた。現在では無停電で電力供給し続ける機能を重視して無停電電源装置(UPS)と称している。その頃からコンピューター時代への移行が急加速され、コンピューターは高速化、高性能化、大規模化が進み、それに伴いコンピューターを停止させないための安定した高信頼度の無停電電力が不可欠となってきた。

1970年代には高信頼度を実現させるためのシステム技術が進展し、商用電源をバイパス電源として無停電で負荷給電継続するための無瞬断切換えスイッチの実用化、複数台のUPSからなる並列冗長システムを構成する高速サイリスター遮断器の実用化、高性能、高信頼度のシステム制御技術の開発が進み、50kVAから300kVAを標準化したTOSNIC(Toshiba Non Interruptible Converter)シリーズを製品化した。

直流から交流への電力変換には当時600V-300Aの高速サイリスターと転流リアクトル、転流コンデンサーを用いたマクマレー方式インバーターが使用されたが、その後自己消弧形電力用半導体素子が出現し、ゲートターンオフサイリスター(GTO)を経て絶縁ゲートバイポーラトランジスター(IGBT)を使用したインバーター、コンバーターが用いられた。電力用半導体素子の発展とともにUPSは高性能、高機能、高信頼度を実現し、社会の要請に応え目覚ましい発展を遂げてきた。1980年代後半には1カ所で13,000kVAものUPSが設備されたオンラインシステム用計算センターが登場し、現在では高度情報社会を実現するデータセンターや各種管制システム、半導体製造工場などの重要なシステムに24時間365日無停電で電力を供給し続けるためには無くてはならない電源システムとなっている。

  • TOSNIC

    TOSNIC

  • TOSNIC

    TOSNIC

  • TOSNIC 200kVA

    TOSNIC 200kVA

世界初の郵便物自動処理装置

世界初の手書き文字認識により、手作業を機械化。
高度情報化社会における省力化機器の先駆けに。

世界初の郵便物自動処理装置

日本の郵便制度の仕組みは1871(明治4)年に始まる。郵便物の区分業務は当社が1967(昭和42)年、世界初の手書き文字を認識する郵便番号自動読取区分機を開発するまで約100年間、人手で区分したため、作業者の熟練度により能率が左右された。

1965(昭和40)年、郵便業務効率化のため機械導入が検討され、郵政省の指導のもとに、機器事業部(当時:柳町工場)と総合研究所(現:研究開発センター)でプロジェクトを編成した。まず郵便局内の作業を系統的に分析することから着手し、郵便物自動読取区分機(TR)、郵便物自動取揃押印機(TC)、郵便物自動選別機(TS)の順に開発を推進した。

1966(昭和41)年に、制限手書き数字を読み取る最初の試作機が完成後、自由手書き数字の読み取りについて委託研究を受け、全国から集めた千差万別の手書き文字を分析し、読み取りの可能性を報告した。1967(昭和42)年には総合研究所の光学文字読取技術(OCR)を使用し、ついに世界初の手書き文字読み取り試作機TR-2型を完成させた。

この区分機は書状本体を取り扱う機構部、郵便番号から書状の区分先を決め機構をコントロールする制御部、郵便番号を判読する認識部の3部で構成されている。供給部に置かれた書状は1通ずつ取り出されて搬送され、郵便番号はビジコンカメラによって撮像され電気信号に変換され、郵便番号だけを検出し切り出す回路により数字信号が識別部へ送られ、特徴抽出方式による判読は制御部に伝えられ、ここで区分ポケットを指定し、書状の動きと同期をとり区分ゲートを動かし所定ポケットまで書状を誘導、区分作業が完了する。

郵便番号を記入する赤枠は日本独自で、枠内の定位置に書かれることで数字の線だけを必要な信号として光学的に拾い上げることが可能だが、自由手書きでは、使用する筆記用具、字の大きさと位置、線の太さと濃度など千差万別で、30万字にも及ぶサンプルを全国から集め、解析シミュレーションをもとに改良を重ね、実用機TR-3型(区分ポケット50口)とTR-4型(区分ポケット100口)を製造した。1968(昭和43)年7月1日、郵便番号制度発足の日に東京中央郵便局で一般公開した。

読取区分機実用化と並行して1967(昭和42)年には世界初の切手検出方式による郵便物自動取揃押印機、翌年には活字印刷数字を読み取る読取区分機も完成させた。これらの研究開発成果が認められ、1969(昭和44)年に、機械振興協会賞、翌1970(昭和45)年に、毎日工業技術賞を受賞し、国内外から高い評価を受けた。これはやがて訪れる高度情報化社会での郵便局、駅、銀行などでの省力化機器開発の先駆けとなった。

  • 郵便物自動取揃押印機TC-3型

    郵便物自動取揃押印機TC-3型

  • 1969年万国郵便大会出席者の柳町工場見学

    1969年万国郵便大会出席者の柳町工場見学

日本初の量産型柱上真空開閉器

配電線網のより安全に貢献した柱上真空開閉器。
万全の品質管理で累計納入20万台を達成。

日本初の量産型柱上真空開閉器

電柱を見上げると電線だけでなく、変圧器や区分開閉器(単に開閉器ともいう)が取り付けられている。この開閉器の目的は、例えば配電線網のある地点で事故が起きたとき、事故発生のブロックを切り離して、停電領域を最小にするためである。このため多くの開閉器が配電線網の中に配置されている。

従来、電柱には開閉器は絶縁油の中で電流の開閉を行う油入開閉器が取り付けられていた。しかし、毎年夏になると雷害のため噴油炎上事故が発生し、1967(昭和42)年にはたまたま通りかかった市民の上に炎が降りかかり、人身災害を引き起こし、新聞報道などで大きな社会問題になった。このような公衆災害を防止するため、電力会社はオイルレス化に踏み切った。

当社は、真空バルブが本質的に電流の多頻度開閉特性に優れていることから、真空バルブの開発を進めており、この動きに直ちに呼応して、1967(昭和42)年にVSP型真空開閉器(手動操作型)を業界に先駆けて1号機として世に送り出した。

このときのタンクは鉄製の箱で、長年装柱作業に従事した作業者が慣れた油入開閉器に類似した形状とした。しかし、多数ある油入開閉器を置き換えるには限界があったため、量産設備を真空バルブの製造工場に導入し、組み立て量産ラインを作り、タンクをアルミダイカストにしたVSP2型に切り替え、1968(昭和43)年から納入を開始した。

“20年間真空リークゼロという電力会社からの要求”を実現するため、真空バルブ部品製造メーカーに部品の品質向上策の確立を依頼した。このことは、その後の真空バルブ全体(真空遮断器用バルブを含む)の品質向上に寄与し、現在に至っている。

さらに、屋外で風雨にさらされた状態を模擬した、人工気象試験室を設け、テストを行い、20年間使用に耐えることを確認した。特に大気汚染がひどい地域に装柱される場合を想定して、当時もっとも環境の悪かった京浜地区の工場での装柱暴露試験を行い、問題のないことを確認した。

その後、さらに改良を加え、VSP3型、VSP4型を経て、1978(昭和53)年にVSP5型にモデルチェンジを行い、真空開閉器としての納入台数は延べ20万台、使用された真空バルブはバルブ単体の販売分を含め300万本に達した。

これはバルブの設計はもとより、材料の選定、製造プロセスの管理および試験などで品質管理に万全を期した結果であり、量産品の工業製品で故障率100万分の1(1ppm)以下はまれなことである。

さらに真空開閉器開発部門は、この真空バルブを使用して、6kV地中配電用の区分開閉器として多回路真空開閉器を開発し、1968(昭和43)年から納入を開始した。これは3~5回路の開閉器を一つのタンクに収め、一つの回路を電源用に、残りの回路を負荷側用に使うもので、設置場所が道路や歩道下の地下構内であるため、特に水密性能と防さび性能に留意して設計した。設計品質確認のために水槽に長期間沈め放置試験を行い、設計通りの性能であることも確認した。

  • 量産型柱上真空開閉器VSP2型

    量産型柱上真空開閉器VSP2型

  • 多回路真空開閉器

    多回路真空開閉器

世界初のセットフリー形(可搬形)
ルームエアコンの開発

ボール紙モデルで検討開始。
事業部長宅での実用テストで水浸し事件発生。

世界初のセットフリー形(可搬形)ルームエアコンの開発

1965(昭和40)年、小型クーラーの販売台数は業界全体で10万台程度であった。当時、テレビ、冷蔵庫、洗濯機はほぼ普及が終わり、次はクーラーの番だと言われながら目覚ましい普及には至らなかった。なぜクーラーは他の家電製品と同じように急激に伸びないのか、阻害要因を検討した結果、据え付け場所の選択が可能で据え付け費用が不要なシーズンオフ(当時は全て冷房専用タイプ)時に移動ができるエアコンがあれば飛躍的に販売が伸長するのではないかとの考えから開発をスタートした。

水を使った凝縮熱交換器の選定から始まり、熱排気のためのホース、水を循環させるためのポンプ、理想的な部品の配置の検討など、何もかもゼロからの開発であった。全体が室内に納められるため一般の家具と同じような感覚でデザインし、製品を移動しやすくする検討のため敷居の寸法、レールの寸法、じゅうたんや畳の仕様などの調査も行った。貯水タンク、排気ホース、キャスターや取っ手の選定などで退社後や休日にはデパートや金物屋めぐりを行った。第1次試作ではボール紙を使ったレイアウトモデルを作り設計者のイメージ作りに役立てた。

1966(昭和41)年の夏に第1次試作品による実用テストを実施した。製品的には未熟であり、事業部長宅では部屋を水浸しにするという事件を起こした。また「音がうるさい」という指摘や冷却水がなくなったときにコンプレッサーを自動的に停止するスイッチの不動作など、多くの問題が発生し、対策のため実用試験を実施していた事業部長宅を飛び回った。このときに、多くの課題に対応しながら得られた知見は「今後の日本家屋向きのエアコンとして十分存在価値がある」との確信だった。

問題点の解決とコスト改善のため再設計した試作品を1967(昭和42)年夏に2回目の実用テストを行い、得られた意見を設計に織り込むプロジェクトチームをスタートした。水中に含まれる物質が蒸発残留物として貯水槽と銅管表面・送水用ホースなどに大量に付着することに対する解決および水あか洗浄剤の研究や掃除をしやすくするための構造検討などに注力した。1968(昭和43)年5月7日に500台の量産を実施した。従来のエアコンの常識を破るエアコンとして新聞やテレビに取り上げられたことは同業他社へ大きなショックを与えた。1969(昭和44)年に12,000台、1972(昭和47)年に80,000台を突破、当社はこの分野で5年間独走した。

この水冷セットフリーエアコンは1970(昭和45)年4月に日本電機工業会から技術功績者表彰(進歩賞)を受賞した。さらに、この水冷セットフリーエアコンの欠点である水の補給や水あか問題を解決した空冷セットフリーエアコンを1973(昭和48)年3月に量産開始した。この空冷セットフリーエアコンも、1974(昭和49)年4月に日本電気工業会から技術功績者表彰(進歩賞)を受賞した。

  • セットフリーの取扱説明書

    セットフリーの取扱説明書

  • 後継機種

    後継機種

世界初の大幅IC化カラーテレビ

故障が少なく、省電力で安定した画面で話題。
エレクトロニクスの最新技術を結集したカラーテレビ。

世界初の大幅IC化カラーテレビ

IC(集積回路:Integrated Circuit)は1959(昭和34)年米国TI社のジャック・キルビーにより発明された。キルビー特許のポイントはシリコン結晶中にトランジスターや抵抗、コンデンサーなどの部品を作り、結晶そのものが回路機能をもつことである。このIC技術の根幹は、実は米国フェアチャイルド社が開発したプレーナ型トランジスターにあった。そしてプレーナ構造(平面という意味)を実現させた技術革新(シリコン酸化膜形成と不純物拡散)が今日のエレクトロニクス発展になくてはならない小型、高性能、高信頼性のIC開発への道を拓くことになる。

当社は1959(昭和34)年に日本初のトランジスター式テレビ(白黒)をいち早く完成させた。カラーテレビへのIC導入も他社に先駆け、1969(昭和44)年、自動調整(AFT)回路からスタートさせた。続いて音声回路用や色信号復調回路用ICを開発し、テレビのIC化を積極的に推進した。そして1971(昭和46)年、一挙に11個のICを採用した世界初の大幅IC化カラーテレビ20C60を完成させた。

IC化とは全てがICではなく、ICとトランジスターが混在しているという意味である。IC化した回路はチューナー、出力部、電源部、水平発振および増幅、映像増幅の一部を除いた部分で、使用したICは全てバイポーラ形半導体である。このテレビは大幅なIC化を行っただけでなく、ブラウン管には直射光を受けても白けないブライトロンを組み合わせ、スイッチ1つで自動調整になるユニオートシステムを採用した。また新開発のパワートランジスター2SC1172によって水平出力と高圧発生を一本化させている。

IC化による特長は従来の個別部品から得ることができなかった高性能回路をテレビに採用でき、回路部品を大幅に削減できたことである。これにより、はんだ箇所も激減し信頼性が向上した。回路スペースが縮小され印刷基板は回路機能別にモジュール化し、コネクターで着脱可能になっている。さらにシャーシのコンパクト化によりキャビネットの奥行きが40mm縮小された。テレビ各機種間での回路の標準化と手作業組み立てが少なくなり製造工程の省力化が可能となった。

エレクトロニクスの最新技術を取り入れ完成したIC化カラーテレビは故障が少なく、消費電力がわずかで、安定した画面が見られるなど、全ての点でいままでにないレベルの高い品質を実現した。

  • オールトランジスターCTV

    オールトランジスターCTV

  • 東芝深谷工場ロビー

    東芝深谷工場ロビー

日本初の家庭用もちつき機

いつでも、手軽につきたてのもちが食べられる“もちっ子”。
「蒸す」と、「つく」ができ、パン生地や味噌もできるスグレもの。

日本初の家庭用もちつき機

1962(昭和37)年ころに、農家向けにもちをつく大きな機械(3升用)が出回りだした。駆動するモーターからベルトをかけて、スクリューを回転させる構造である。1968(昭和43)年には、モーターを内蔵させ、羽根を回してもちをこねる機械が売り出された。農機具メーカーが農家向けに開発した大きな機械であった。これらは、先に蒸籠(せいろ)で蒸したもち米を、「機械に移して」もちにするのである。

昭和40年代に入り、さまざまな家電商品が普及するようになったころ「どこの家庭でも、手軽につきたてのもちが食べられるもちつき機ができないか」と、名古屋工場(当時)の開発部門が新しい調理機器の研究を進めていた。そして多くの意見の中から、一般家庭でつくもちの量は1升で十分との結論が得られた。一方で、「都会の家庭で使えるように、もっと小型の商品ができないか」「蒸し終えたら、そのまま同じ臼(容器)の中でつく作業ができないだろうか」という課題が出てきた。

さらに「つくだけの機械」に、「蒸すためのボイラー」をいかに組み込むかが、難問であった。知恵を出し合って試作と実験を繰り返した結果、臼の下、モーターの反対側に空間を確保し、ボイラーを組み入れることに成功した。

しかし、まだ解決すべき大きな問題があった。それは、このもちつき機で作ったもちの「食感」と「ねばり」である。さらに、お雑煮を煮たときに型崩れが起こらないことである。いかにして「杵つきのもち」に近づけるかを研究し、臼の底に取り付けた羽根の形と回転数を変えては、実験を繰り返す日々が続いた。

その結果、羽根の回転はできるだけ遅い方が、もち米の組織を傷めにくいことがわかった。

そこで、羽根は1枚羽根とし、モーター直結でなくベルトで減速する構造とした。また、臼や羽根の表面はフッ素樹脂加工にした。するともちのつき加減もよく、何よりもつき終わった後のもちが非常に取り出しやすくなった。

このような試行錯誤の末、1971(昭和46)年、日本初の家庭用もちつき機“もちっ子”を発売した。お店で実演をはじめると、大変な人だかりができた。もち米がくるくる回りながら、徐々にもちに変化する様は、見ていて飽きないのだ。“もちっ子”は爆発的に売れだした。

この商品の大きな特徴は、1台で「蒸す」と「つく」の2つの機能を合体させたことである。これまでのように、かまどの蒸籠(せいろ)から、つく機械へと移し変える手間が省けた。

1976(昭和51)年、市場はピークを迎え年間100万台近くが販売された。もちつき機は、蒸し機能を活かし「赤飯」、「シューマイ」、「パン生地(練りと発酵)」など、多くの調理が可能になった。また、羽根を回して調理する技術は、後にホームベーカリーなど他の機器にも活かされている。

  • 自動もちつき機取扱説明書

    自動もちつき機取扱説明書

  • 自動もちつき機の構造

    自動もちつき機の構造

世界初のブラック・ストライプ方式ブラウン管

より明るく、鮮やかに。
テレビ用カラーブラウン管の世界標準システムが搭載された画期的製品。

細ネックタイプ

写真は細ネックタイプ

1950年代後半、NHK技術研究所を中心に各メーカーは共同でカラーブラウン管の試作研究を行っていた。1960年代から徐々に量産に移行し、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催を契機に、急激にカラーテレビ市場が成長した。

当時は米国の技術をベースにしたデルタ配列電子銃・丸孔シャドウマスク方式だったが、1965(昭和40)年に入ると70度偏向管から90度偏向管へ移行した。希土類蛍光体の導入による明るさの向上や、シャドウマスクの熱膨張を補償するバイメタル技術の採用、ブラックマトリクス (BM)スクリーンの採用による明るさの向上など、新技術が導入され性能が大幅に向上した。しかし改善が必要な部分も多く、色純度やコンバージェンスの調整が難しく、必要な調整回路も複雑で高価であり、高品位化や、広偏向角化による奥行きの短縮はシステム的には困難だった。

これらの問題を解決したのは、新しく開発されたスリットマスク、ストライプスクリーン、インライン電子銃をもつカラー管で3本の電子銃をインライン(一列)に配列し、シャドウマスクの開孔を長方形状(スリットマスク)に、スクリーン構造を線状(ストライプ)にした。こうした組み合わせはカラー管としては初めてであり、性能や多くの利点が期待できたが、製造が困難で実現には新しい部品やプロセス開発が必要になった。

可能性自体が不明だったスリットマスクは、それでも試行錯誤を繰り返すなかで設計やプロセス条件を掴み、実用的に十分な、開孔品位、開孔率と機械強度をもつ特殊開孔形状のスリットマスクが完成した。高開孔率のスリットマスクは、明るさが従来比20%向上した。スクリーンもインライン方式カラー管もBMスクリーンを採用した。BMスクリーンの製作は、フェース曲面とスリットマスクの不連続開孔の影響を受けやすかったため、時間をかけて、長光源の揺動とシャッターを併用する新露光方式を導入して解決した。

インライン方式カラー管は明るさの向上とコストダウンが実現できただけでなく、画面上下および横方向のランディングも正確になったため、色純度品位が向上し、調整も容易になった。

1971(昭和46)年には、蛍光体ストライプだけのスクリーンで14インチ管を商品化、続いて20インチ110度偏向BKS管を商品化した。ノン BS管も一世を風靡(ふうび)した。その後、テレビ用カラーブラウン管の世界標準となった基本システム(インライン電子銃、スリットマスク、ストライプスクリーン)は、このカラーブラウン管をもって嚆矢(こうし)とする。

  • ブラック・ストライプ方式ブラウン管の構造図

    ブラック・ストライプ方式
    ブラウン管の構造図

  • 20C223 明るく、鮮やかなハイコントラストブラウン管採用

    20C223 明るく、鮮やかなハイコントラストブラウン管採用

世界初の家庭用単管式カラーカメラ

世界初のヘリカル方式VTRが、
周波数インターリーブ撮像管の生みの親となった。

世界初の家庭用単管式カラーカメラ

今では家庭用のカラーカメラは高画質の動画像を撮影するビデオカメラとして、手軽で便利なものになった。しかし世界で初めて家庭用のカラーカメラを開発した当時(1970年代)は光の信号を電気信号に変換するための撮像管との苦闘の連続であった。

その時代、高価なカラーカメラは主に放送局で使われており、その応用分野として教育用、医療用などで一部が使われていた。これらのカラーカメラは被写体からの入射光線を光の3原色(赤・緑・青)に分解する光学系のフィルターを通して3本の撮像管を使う3管方式が主流であった。この3管式では赤・緑・青の3色画像を正確に重ね合わせる調整技術が大変な作業で、その上高価な撮像管を3本も使うため、家庭用として普及させるには著しく困難であった。

この撮像管の数を減らして、1本でカラー画像が取り出せれば理想的で、その一方式として周波数多重方式が考えられた。これは2種類の色ストライプフィルターのピッチを変えて配列させ、赤と青の色信号を周波数多重で取り出そうとするものであった。これには、高解像度の撮像管が必要になり、一部の業務用に使われたが、家庭用に広く普及するには至らなかった。そこで考えられたのが周波数インターリーブというアイデアで、色ストライプフィルターを走査線方向に対して、斜めに配置するというものであった。

当時の総合研究所では、澤崎憲一博士を中心に映像信号をテープに記録するために、斜めドラムのヘリカル方式VTRが発明され世界トップレベルの開発が行われていた。

このヘリカル方式VTRに倣って、カメラでも走査線ごとに位相が変われば良い、それには色ストライプフィルターを走査線に対して斜めに配置し、周波数インターリーブを採用すれば良いではないかとのアイデアである。こうすることで、輝度信号と周波数を共有でき、さらに二つの色信号も周波数インターリーブの関係に保てば、色信号同士で周波数を共有できる。単に周波数領域だけで赤青信号を多重していた撮像方式に比べて、周波数帯域を効率よく利用できる画期的な方式であった。

次なる開発は、この撮像管を量産化するために、色ストライプフィルターを撮像管に内蔵したことである。当時、カメラの信号処理の電気回路はほとんど半導体化されていたが、撮像管だけは電子管が使われていた。いわゆる真空管で、その特性は温度と経時変化で、まるで生き物のように変わってしまう。その上、管によって特性が微妙に違うので、カラー画質を安定に保つのは大変難しい作業であった。ビデオカメラを家庭用に普及させるためには、設計手法から従来の概念を一掃する必要があった。またコスト削減も重要な要素となった。このため、特別プロジェクトが結成され、開発、設計、量産製造技術の開発に取り組んだ。こうして、1973(昭和48)年夏に量産化のめどがつき、1974(昭和49)年に世界初の家庭用単管式カラーカメラ(IK-12)を製品化した。

  • 色ストライプフィルター内蔵撮像管(E5280)

    色ストライプフィルター内蔵撮像管
    (E5280)

  • 単管式カラーカメラIK-12の製品カタログ

    単管式カラーカメラ
    IK-12の製品カタログ

  • 2018年9月に米国テレビ芸術アカデミーによる技術・工学エミー(Emmy)賞を受賞

    2018年9月に米国テレビ芸術アカデミーによる
    技術・工学エミー(Emmy)賞を受賞

世界初のマイコンによるデジタルコントローラー

デジタル制御が全産業の省エネ、公害防止、生産性向上に貢献。

世界初のマイコンによるデジタルコントローラー

1973(昭和48)年、当社は米国フォード社向けに自動車エンジン制御用12ビットのマイコン「TLCS-12」を開発した。0.1%の計測精度が要求されるプロセス制御など産業応用に最適で、しかもCPUや周辺LSIも整い、温度や湿度などの過酷な環境条件に耐える設計になっており、これまでの装置タイプの制御用コンピューターが手のひらに載ると技術者は驚喜した。

早速、産業用計測制御機器の応用開発プロジェクトを発足させ、1975(昭和50)年6月に従来のアナログ調節計にマイコンを組み込んだ世界初のデジタルコントローラー「TOSDIC™」の開発に成功した。

1970年代は日本産業の拡大期にあたり、鉄鋼、石油などの生産設備が大型化する一方、生産性向上、省エネ、公害防止などに対応した複雑なプラント運転が要求されるようになり、温度、流量など1点1点をアナログ調節計で制御するアナログ制御システムから、プロセスコンピューターによるデジタル制御への指向が強まった時期だった。デジタル制御では1台のコンピューターの故障がプラント全体に及ぶ恐れがあり、システムの信頼性と設備投資の経済性に課題を抱えていた。

当時のデジタルコントローラーは、マイコンを組み込んだコントロールステーションと最大8点の制御点を監視操作するループステーションで構成される分散型システムだった。運転員は従来のアナログ調節計と違和感なく監視操作ができ、信頼性においても経済性においてもアナログ制御システムを超える画期的な商品として産業界に受け入れられた。さらに、1979(昭和54)年にはおのおのループステーションにマイコンを組み込んだワンループコントローラーへと発展した。

デジタルコントローラーは各制御ループの制御性を改善したほか、複雑な多変数制御も容易に実行できた。特に、ボイラーや反応炉の燃焼制御においては、燃焼量がどのように変動しても空気、燃料の混合比を最適に維持できる「ダブルクロスリミット™燃焼制御方式」を開発実用化し、各プラントの公害防止と省エネと生産性向上に大きく寄与した。デジタルコントローラーシステムは、鉄鋼、石油化学、火力、上下水道やビル施設などほとんどの産業分野に適用され、その実績が高く評価され、1981(昭和56)年には毎日工業技術賞を受賞した。

1980年代には産業の多品種少量生産やフレキシブルオートメーションのニーズが強くなり、これに対応して、コンピューターCと、計装制御I、電気制御Eをいち早く融合し、新しくCIE統合制御システム「CIEMAC™」として発展させた。デジタルコントローラーで培ったマイクロエレクトロニクス技術、制御技術、情報・通信技術などによって圧延計測器、電磁流量計など計測制御機器も次々とマイコン化を進めることができた。

  • DINサイズワンループコントローラー210Dシリーズ

    DINサイズワンループコントローラー
    210Dシリーズ

  • CIE統合制御システムCIEMAC™

    CIE統合制御システムCIEMAC™

世界初の自動車エンジン電子制御(EEC)マイコン

突然フォード社から米国排ガス規制法(通称マスキー法)の
プロジェクトに参加しないかと分厚い仕様書が送られてきて...

世界初の自動車エンジン電子制御(EEC)マイコン

一般機械装置の制御方法が電子管から半導体に急速に変わりつつあった1970年代、自動車のほとんどの制御はメカに頼っており、いずれ自動車にも半導体制御の時代が来るであろうと予感されていた。その頃、当社はフォード社と自動車用オルタネーター(交流発電機)整流ダイオードの供給で緊密な関係があった。1971(昭和46)年3月、突然フォード社が米国ガス規制法(通称マスキー法)対策の自動車エンジン電子制御装置(Electronic Engine Control、以下EEC)のプロジェクトに参加しないかと分厚い仕様書を送ってきた。このプロジェクトは既に半年前からスタートしており、RCA社やモトローラ社などが検討を始めているとのことであった。

フォード社からきたエンジン制御の電子化の要請は簡単な仕様が示されただけで、プロポーザル(提案書)作りは大変困難なものであった。幾つかのプロポーザル案を検討したところ、マイコンによるエンジン制御の提案がフォード社の興味を引くことになった。しかし、インテル社の4ビットマイコンが世に出たばかりで、当時DEC社のミニコン(PDP-11)は1万ドルもしていた。フォード社からの要求は、このミニコンに近い性能を有するマイコンをわずか100ドルで作ろうというものであった。しかもこのDEC社のミニコン(PDP-11)は高さ1.8m、幅、奥行き80cmの大きさで、空調の効いた部屋に置かれていたが、同じ性能をエンジンルーム内の限られたスペースに収め、激しい振動や過酷な温度変化に耐えられるものを要求してきていた。

急きょ、全社的プロジェクトとして電子事業部の中に特別開発チームを作り、LSIマイコンへの挑戦を始めた。まず、第一の関門は米国デトロイトでの機能テストであった。システム設計担当の必死の努力で、ダンボール箱大のブレッドボードコンピューターを完成させ、フォード社の装置と組み合わせ、実車テストを行った。開発初期のテスト車のトランク内はエンジン制御システムだけで一杯となった。

次の段階は、このブレッドボードで確認した回路のLSI化であった。CADもないマニュアル設計の時代に、設計プロセス担当の昼夜に及ぶ驚異的な努力で、この大規模設計を一度の失敗もなしに動作させることに成功した。

次の難関は、このLSIの量産化であった。しかし、第1次オイルショックによる不況や米国議会でのマスキー法規制緩和などが重なり、フォード社からは一向に正式な発注がないままLSI量産の決断を迫られた。フォード社からの受注の確約を得られないまま進められるプロジェクトに対し、社内から批判が続出したが、最終的に土光会長(当時)の決済でプロジェクトの継続が決まった。この結果、最終的に当社が開発メーカーとなり、1976(昭和51)年には耐久テストに合格し、翌年から製品の納入を開始した。最初はフォード社の“リンカーンベルサイユ”に搭載され、その後多くの車種で引き継がれた。マイコンによるEEC開発は、本格的なカーエレクトロニクス時代の幕開けとなった。

  • トランクに入ったブレッドボード

    トランクに入ったブレッドボード

  • 自動車エンジン制御モジュール

    自動車エンジン制御モジュール

世界初の高解像度電子スキャン型超音波診断装置

従来の製品から大きく解像度を向上させた
東芝独自の腹部用リニア電子スキャンと心臓用セクター電子スキャンの開発。

世界初の高解像度電子スキャン型超音波診断装置

超音波診断装置はプローブを体表に当て、超音波のビームで体内を走査し、体内臓器の断面を表示する装置である。プローブから出た超音波が内臓の各断層で反射してくる短い時間から距離を計算して画像データとして処理する。体内の動く臓器を画像データとして表示しようと、1971(昭和46)年に当時の総合研究所(現:研究開発センター)電子機器研究所で研究を開始した。

最初は胆石を簡単に描出することを目標に、胆嚢検査用のリニア電子スキャンの試作1号機を1975(昭和50)年に完成させた。しかし、実験用のスポンジの中空像は明瞭に描出されたものの、胆嚢はほとんど描写されない。プローブ内部の送受信センサや回路部品特性のばらつきが大きく、解像度を上げるシステム設計も不十分なことが分かり、製品化の難しさを痛感する出来事であった。その頃、他社が電子スキャン型超音波診断装置を販売し始め、一日も早い製品化を求められた。総合研究所としては独創的な研究を事業に結びつけるのが使命である。当社独自の方式を製品化することを目指し、背水の陣で臨むことにした。

先行した他社の製品は、医療診断に使用できるほどには画像が鮮明ではなかったため、他社にない高解像度の腹部用リニア電子スキャンを開発することにした。画質を落とす原因となるサイドローブを1/100に低減する「サブダイシング」、走査面内で超音波ビームを集束する「電子集束」、走査線密度を2倍にする「微小角セクター」、電極付き配列振動子を均一に製造する「一体化切断法」といった技術を盛り込んだ。また製品化を念頭に、部品や回路の特性を徹底的に調べ、すべてのチャネルで常に同じ性能が出ることを確認した。1976(昭和51)年に試作2号機が完成し、共同研究先の関東中央病院でテストした結果、胆嚢内で動く胆石や妊婦の体内で動く胎児など、当時は誰も見たことのない鮮明な画像が描出され、立ち会った医師から「感動でぶるぶる震えた」と言われた。同年8月の世界超音波医学会(サンフランシスコ)に出展、製品1号(SAL-10A)は注目を集め、米国内の病院を回ってデモを行い、驚異的な画質と高く評価された。その後、SAL-10Aを大幅に小型化して製品化したSAL-20Aは世界中に販売されて名機と言われ、米国スミソニアン博物館にも展示された。

超音波ビームの走査法には、腹部用のリニア走査の他に、肺と肋骨に囲まれた心臓を隙間から覗くように走査するセクタ走査がある。当社が腹部用のリニア走査の電子スキャンを開発した1976(昭和51)年に、他社が心臓用のセクター電子スキャンを製品化した。しかし、この製品には調整が必要な部分があり、完成品としては不十分であった。当社は単純で調整が必要ないセクター走査型超音波診断装置を開発することを基本方針に定め、開発をスタートした。鍵となる技術は、セクター走査に必要な可変遅延回路であった。部品グループの協力も得て試作したものの、回路が複雑で一旦は製品化を断念した。しかし、その後、高精度で構成がシンプルな「ROM制御遅延線」のアイデアが生まれ、1977(昭和52)年5月に装置が完成した。

  • リニア走査とセクター走査(電子スキャンでは、プローブを動かす代わりに電子的に超音波ビーム方向を制御する)

    リニア走査とセクター走査(電子スキャンでは、プローブを動かす代わりに電子的に超音波ビーム方向を制御する)

世界初のテレビ受像機用SAWデバイス

LCフィルターの性能を凌駕するも、どこも実用化に悪戦苦闘。
単結晶の育成技術、独創的なフィルター設計が道を開いた

世界初のテレビ受像機用SAWデバイス

弾性表面波(Surface Acoustic Wave;以下SAW)デバイスとは、圧電性基板の上に金属薄膜のすだれ状電極(Interdigital Transducer;以下IDT)と反射パターンが形成された構造で、特定の周波数の電気信号を選択的に取り出すフィルターなどとして使われている。SAWは固体表面を伝搬する機械的振動の波で、圧電性基板の表面に金属薄膜の線状の電極を形成することで、電気信号とSAWのエネルギー変換ができる。また、高周波領域でも基板上の伝搬損失が少なく、その一方で表面状態が極めて敏感なため反射用電極が形成されて容易に反射が生じる。SAWデバイスは、IDTでのエネルギー変換と反射用電極でのSAWの共振現象によって、電気→機械振動→電気のエネルギー変換効率が周波数によって異なる性質を利用したものである。

当社は、1977(昭和52)年に世界に先駆け、テレビ受信機の中間周波フィルター用として、SAWフィルターの量産を開始した。量産化に当たってのポイントは、SAW用圧電結晶としてのタンタル酸リチウム(LiTaO3)単結晶の育成、加工技術の確立や結晶カット角の発見と、フィルターの振幅の位相特性が厳密に得られるくし形状電極設計技術の開発であった。厳密な周波数特性を得るために、SAWに乱れを与える要因を解明し、特性劣化を周波数領域で補正する方法を考案して、高効率で短時間の自動設計を可能にした。さらに、SAWの共振現象を利用した発振子や低損失高周波フィルターを業界に先駆けて量産化し、VTR変調回路のIC化やポケットベルの回路簡素化に貢献した。その後の移動体通信機器の高周波化、軽薄短小化に対応してSAWフィルターの開発を進め、現在では携帯電話のキー部品の一つとなっている。

SAWデバイスの発展を支えた当社の主な技術として、IDT内に反射用の電極を配置した電極構造にすることで一方向にだけSAWを伝搬させて低損失化を図ったこと、反射電極の間に複数のIDTを配置し共振の高次モードを結合させ広帯域化を図るモード多重化フィルター構成を考案し、フィルターの低損失、広帯域化を図ったことが挙げられる。さらに、フィルターの中心周波数はIDT電極線の間隔で決定されるため、高周波化するにはIDTの微細加工技術が重要となった。半導体プロセスのドライエッチング技術を利用し、量産レベルでは線幅0.4μm、周波数で2.5GHzまで可能となった。これは、世界標準である第三世代携帯電話(W-CDMAなど)や無線端末(Bluetooth)に割り当てられている周波数帯をカバーしている。

当社は1パッケージに2フィルターチップを入れたデュアルフィルターやフェイスダウンボンディング(FDB)をベースに、市場から強く求められた薄型化を進めて、よりチップサイズに近づけたCSP(Chip Scale Packaging)の開発も行った。また、近年デジタルテレビ放送がメディアを大きく変えて、通信と放送の境界がなくなっている。そのため、携帯電話、モバイルパソコン、無線端末にテレビチューナーの機能を搭載し、SAWデバイスの特長である、急峻な周波数特性と小型・薄型化構造により、セットの高性能化と小型・軽量化に貢献している。

  • テレビ受信機(18T32)の中間周波フィルター用として使われた

    テレビ受信機(18T32)の
    中間周波フィルター用として使われた

  • タンタル酸リチウム単結晶とSAWフィルタ

    タンタル酸リチウム単結晶とSAWフィルタ

日本初の日本語ワードプロセッサー

現在あらゆるIT分野の入力手段である「仮名漢字変換」により
生み出された日本語ワードプロセッサー。

日本初の日本語ワードプロセッサー

日本語を誰もが簡単に書けるようにしたいという明治時代からの思想は電子計算機によるローマ字、カナ文字使用が実現されてから、さらに強固なものになり、漢字を扱いたいというニーズが強くなっていた。

漢字は常用漢字に限っても1,945字あり、人名漢字284字を合わせると2,229字に及ぶ。この漢字をどのようにして簡単、高速に入力できるかは、大きな問題だった。当時、漢字入力は、和文タイプライターのような全文字の配列キーボードを用いるしかなかった。

この字単位入力に対して、計算機そのものの機能を活用した言語学的入力法を採用した漢字入力法が「仮名漢字変換」であるが、実用化には至らなかった。言語学的方法の最大の課題は、日本語の文法をどのように電子計算機に教えられるか、という問題だった。人間にとっても難しい文法を、電子計算機に教えるには、人間用の文法とは違った文法を作らなければならず、それが難問だった。

1972(昭和47)年、当社は計算言語学的アプローチの予備的検討を開始し、京都大学長尾研究室の協力を得て、日本語の構文解析の研究を始めた。1974(昭和49)年に文節の形態素解析を基本とした仮名漢字変換の研究を開始し、1978(昭和53)年、日本初の実用的な仮名漢字変換システムが完成した。

その後、別途開発した小型・低価格の漢字処理用ハードウェアコンパクトなOSとスクリーンエディターを一体化させ、1978(昭和53)年9月26日に日本初の日本語ワードプロセッサーJW-10として発表し、即日データショーにおいてデモ展示を行った。この日が「ワープロの日」と制定されている。

この言語処理の技術は、本来は変換のいらない英語ワードプロセッサーにも影響を与え、JW-10のように辞書を備えることにより、スペリングミスを自動的に指摘、修正できるようになった。さらに、漢字など表意文字を使う言語は、仮名漢字変換技術を基にした各国独自の技術を開発することにより、日本語と同じように簡単に入力できるようになったのである。

JW-10の登場以降、日本語ワープロはオフィスだけではなく一般家庭にまで浸透したが、1990年代半ばになるとパソコンの低価格化が急速に始まったため、専用ワープロは、惜しまれながらも次第に姿を消すことになる。JW-10で培われた仮名漢字変換とエディターの技術は、パソコン、携帯電話など、日本のあらゆるIT分野の漢字入力手段として引き継がれ、発展を続けている。

  • 全文字配列の和文タイプライターの一種

    全文字配列の和文タイプライターの一種

  • 1983年 Rupo試作原形型

    1983年 Rupo試作原形型

日本初の全身用X線CT装置

頭部用から全身用へ。
将来を見据えた開発プロジェクトにより、世界最高レベルのCT装置メーカーに。

日本初の全身用X線CT装置

CT装置は1972(昭和47)年に世界で初めて英国のEMI社から発売され、手術なしで頭内部を鮮明に観察できる点が高く評価され、瞬く間に全世界に普及した。このCT装置を発明したハンスフィールド博士とコーマック博士は、後にノーベル医学賞を受賞している。

当初は撮影に数分かかり、呼吸などで動きのある腹部には適用できず、頭部専用であった。当社は、EMI社と販売契約を結び、1975(昭和50)年に日本初の頭部用CT装置を東京女子医科大学に納入した。

CT装置は1台数億円と非常に高価で、当時日本での市場規模は100台程度との見方をする人もいた。しかし、開発者たちはCT装置の将来性を高く評価し、頭部だけでなく全身が撮れるものができれば、さらに広く普及するであろうと考えた。そこで当社は、1975(昭和50)年に技術者を結集して全身用CT装置の開発プロジェクトを発足させた。頭部用に関してはEMI社製CT装置の販売サービスなどを通じそれなりのノウハウもあったが、全身用となるとその原理や構造はまったく別で、技術者たちは原理の勉強から始めた。そしてサブユニットを一つ一つ作り始め、3年後の1978(昭和53)年に日本初の全身用CT装置「TCT-60A」が国立がんセンターの4階に据え付けられた。

当時のCT装置は現在よりも大きく、階段やエレベーターでは搬入できず、部屋の窓をはずして、クレーンで吊り上げ搬入した。そして実際に臨床で使用してもらいながら、臨床データの収集を行い、病院の指導の下で画質の向上などさらに改良する努力が続き、昼夜を問わず対策を実行した。その結果、当初はあまり鮮明でなかった画像が鮮明になり、アーチファクトとよばれる、実際には人体にはないのに、人工的に作られてしまう偽像が解消され、頭部ばかりでなく、腹部も数秒で撮れる全身用CT装置として完成していった。

さらに、技術開発の進歩により、全身用CT装置が頭部専用CT装置を凌ぐようになり、今やCT装置はすべて全身用となっている。全身用CT装置の開発は非常にハードルが高かったものの、開発当初から将来を見据えて全身用CT装置の開発に取り組んだことで、CT装置としては後発であった当社が、その後の開発競争に追いつき、追い越して今や世界最高性能のCT装置を供給する会社になることができた。

当社が持つヘリカルCT特許が新しいCTの世界を広げ、今や数秒で心臓が3次元的に描写できるCT装置が医療の現場で活躍している。

*ヘリカルCT:
X線管を高速で連続回転させながら患者を撮影し、らせん状に撮影データを連続収集する方式。従来のCTと比べて短時間に広範囲の撮影ができる。
  • EMI MK–1 CTスキャナーの歴史を飾る英国EMI社製頭部用CT

    EMI MK–1 CTスキャナーの歴史
    を飾る英国EMI社製頭部用CT

  • 最高級頭部用CT(TCT–10A)

    最高級頭部用CT(TCT–10A)

世界初のベクトル制御インバーター

交流モーターを直流モーターのように自由に制御したいとの想いを
ベクトル演算で実現、交流可変速モータードライブ時代の幕開けに。

世界初のベクトル制御インバーター

当社はインバーターと誘導電動機とを組み合わせて高性能な制御をするベクトル制御交流可変速モータードライブを1979(昭和54)年に世界で初めて大型プラントに適用した。この功績によって「大型抄紙機駆動用ベクトル制御インバーター装置」として日刊工業新聞より1979(昭和54)年十大新製品賞を受賞した。

それまで高性能な制御をする可変速モータードライブでは直流モーターが使われていた。直流モーターは直流電圧の大きさによって出力を自由に制御できるが、回転部分に電気を送る必要があり、構造も複雑になる。一方、交流モーターである誘導電動機は固定部分のみに電気を送ればよく、構造は簡単で手入れもほとんど必要ない。しかし、インバーターで交流の電圧と周波数を制御しただけでは過渡的な振動が発生し、出力が落ち着くまで時間がかかる。その頃、誘導電動機の磁束ベクトルに合わせて交流ベクトルを制御する概念がすでに発表されていたが、磁束ベクトルを直接検出することが難しく、実用化には至らなかった。当社ではこの問題を解決する方法として1978(昭和53)年に交流ベクトルを演算で求める方法を発表し、翌年このベクトル制御を500kWの大容量モータードライブで実用化した。

いきなり500kWへの適用はかなり冒険を含んでいたが、入念な設計、調整により抄紙機プラントは無事稼働し、交流可変速モータードライブ時代の幕開けとなった。さらに、マイクロコンピューターを使ったデジタル制御をいち早く採用し、直流モーターをしのぐ性能になったことで、製鉄所などで使われている1万kWを超える大容量モーターへの適用拡大が急速に進んだ。この結果、交流可変速モータードライブ技術は日本が世界をリードすることになり、直流モーターから交流モーターへの転換が急速に進むことになった。現在、このベクトル制御は産業分野だけでなく小容量から大容量まであらゆる分野へと応用が広がり、その考え方は誘導電動機だけでなく同期電動機や永久磁石電動機などの交流モーター制御の基本として定着している。

例えば、エレベーターではこのベクトル制御を採用し、1983(昭和58)年に世界初のインバーター高速ギアレスエレベーターを開発し、快適な乗り心地と高速運転を実現している。エアコンでは1982(昭和57)年に世界初のインバーターエアコンを実用化し、その後ベクトル制御を導入して、消費電力と騒音のさらなる低減を実現した。また、鉄道分野でもこのベクトル制御の採用により、速度ゼロまで可能な電気ブレーキや、車輪の空転に素早い対応ができる機能を実現し、その後の標準的な制御方式となっている。

  • 抄紙機用500kW誘導電動機

    抄紙機用500kW誘導電動機

  • 鉄鋼圧延プラント

    鉄鋼圧延プラント

  • 新幹線700系

    新幹線700系

世界初の電球形蛍光ランプ
「ネオボール™」(ボール形)

どこまで小さくできるかが、大きなポイントであったが、
最終的に直径110mmのボール形状に収めることができた。

世界初の電球形蛍光ランプ「ネオボール™」(ボール形)

1890(明治23)年、日本で初めて一般白熱電球を実用化して以来、夜も明るくなり生活環境は大きく改善された。1940(昭和15)年には新しい光源の蛍光灯が日本で初めて生産され、発光効率が約5倍となり、寿命も約5倍と長いことが好評であった。

蛍光灯は、省エネルギーで長寿命ではあるがその形は直管形か環(サークル)形であり、その大きさから白熱灯のソケットに直接取り付けることができなかった。そのため、これまで白熱灯が設備されている箇所は、節電ができないままであった。また、白熱灯は寿命が短く取り換える頻度が多くて不便でもあった。

1973(昭和48)年、第1次オイルショックが起こり社会生活に大きな影響を与えた。このような状況下で、照明関係者とりわけ技術者はこの発光効率のよい蛍光灯を電球形状にできないかと日夜模索した。形状の大きな蛍光ランプに電球口金をつけた蛍光ランプも開発されたが、市場では評価されなかった。

やはり、電球の形に近い蛍光ランプを開発すべきであった。実は、早い段階から『蛍光灯を小さく曲げて点灯装置と一体化すれば電球のようにソケットで使える“電球形蛍光灯”ができるのではないか?』というアイデアはあった。しかし、試作に取り掛かるまでの決断には時間がかかったのである。

1978(昭和53)年になると、ガラスの成形技術や蛍光体などの諸材料の進歩もあって、ようやくその可能性を見極めるために、試作に踏み切った。試しに、細い棒状の蛍光灯を曲げて安定器(点灯装置)を組み込み、ボールをイメージしたプラスチックのカバーに入れてみると、ランプと安定器から出る熱で温度が非常に高くなってしまい、これでは商品化できない。

そこで、プラスチックカバーの上下に小穴を無数に開けると、どうにか実用に耐えることがわかった。しかし、そのためにガラスグローブは採用できず、ポリカーボネート樹脂で製作せざるを得なかった。

さらに、管径、ガス圧、電極など諸要因から改良を加えて発光効率、始動特性、動程寿命などのランプ特性の最適化を図った。どこまで小さくできるかが、大きなポイントであったが、最終的に直径110mmのボール形状に収めることができた。

そして1980(昭和55)年7月、世界初の電球形蛍光灯「ネオボール™」(ボール形)を発売することができた。価格が高いという課題はあったが大好評であった。しかし、市場性を高めて普及を拡大するには、通気孔からの虫やほこりの侵入を防ぐためにグローブを密閉化し、外観も一新させる必要があった。実験を進めた結果たどり着いたのが、電極近くにインジウムという物質を蒸着しておくことであった。この技術の採用によって熱の発生が少なくなり、発光効率を高めることができた。これによって密閉化が可能となりガラスグローブの採用も実現できた。さらに点灯回路の電子化にも成功し、軽量でより明るい電子ネオボール™を業界に先駆けて、1984(昭和59)年に商品化した。

  • 電球形蛍光ランプ「ネオボール™」の構造図

    電球形蛍光ランプ「ネオボール™」の構造図

  • 2011年(一社)電気学会「でんきの礎」受賞

    2011年(一社)電気学会「でんきの礎」受賞

世界初のマイコン応用デジタルリレー

マイコンを使ったデジタルリレーの研究は国内外で盛んに行われたが、
当社が世界初の電流差動リレー装置として実用化。

世界初のマイコン応用デジタルリレー

デジタルリレーに関する最初の論文は、1968(昭和43)年のアメリカのG. D. Rockfellerの論文とされている。当時はマイコン出現以前で、当社を含めて世界各地で大型プロセスコンピューターによる保護リレー演算の研究が行われていたが、装置規模が大きすぎることと演算速度性能面で現実的なレベルではなかった。しかし、マイコンの出現でデジタルリレーの実現性は急に増してきた。

1970年代後半は、電流差動保護方式が研究された時期である。電流差動保護方式は、送電線各端子からの流入電流の総和がゼロなら事故無し、ゼロでなければ事故有りと判定する高感度で信頼性の高い事故検出保護方式である。このための伝送方式としてアナログFM伝送と並んで研究されたのがデジタルPCM伝送である。PCM伝送を用いたデジタル電流差動方式では、各端子の電流瞬時値を同期してサンプリングしデジタル変換する必要があり、大変高度な技術が要求される。デジタル電流差動リレーは、PCMリレーと称して1970年代前半から基礎研究が行われていたが、数度のフィールド試験を経て、変電所の高電圧・大電流、多様な温度環境下においても、長期間高信頼度で保護機能を維持できる改良設計が加えられ、1980(昭和55)年には、当社による世界初の電流差動リレー装置として、東京電力275kV梓川線に適用された。

PCM電流差動リレーは高度な脱調検出機能を内蔵していることも大きな特徴である。一部の発電機が系統との同期を維持できずに脱調した場合、発電機の位相が180°反転したタイミングで、電力系統のどこかの点で電圧がゼロになる。この点を脱調中心と言い、脱調が発生した場合、脱調中心で系統分離することで発電機の安定運転を継続できる。PCM電流差動リレーでは、伝送された相手端子の母線電圧位相情報を使って線路両端の電圧位相を直接比較することができ、両者の位相が180°反転したことにより、脱調中心が線路に入ったと判定することで、確実に脱調中心で系統分離させることができる。

このように、PCM電流差動リレーは、電圧位相比較による脱調検出機能、伝送データの誤り検出能力など、FM電流差動リレーでは容易に実現できない機能を持っている。現在では全国の超高圧の基幹系統から66kVの低位系統に至るまで、最も信頼される送電線保護方式としての地位を確立している。

PCM電流差動リレーで始まったデジタル形保護リレーは、その後、同じ1980(昭和55)年に導入された66kV八日市場線の回線選択保護リレーをはじめとして、適用が徐々に拡大してきた。しかし、第1世代のDI形デジタルリレーは、バイポーラ形素子を採用していたことにより発熱の問題があり、特殊なヒートパイプを使って発熱の課題を解決していた。演算素子の進歩は目覚ましく、その後数年で発熱が少ないMOS形の高速演算素子が出現した。これにより、デジタルリレーはMOS形を使った東芝における第2世代DⅡシリーズの時代へと移っていき、DⅡシリーズが開発された1985(昭和60)年以降、デジタルリレーの適用は全国で飛躍的に伸びていき、保護リレーの主役となった。

  • 世界初のデジタル電流差動リレー

    世界初のデジタル電流差動リレー

  • 第2世代デジタルリレー

    第2世代デジタルリレー

世界初の家庭用インバーターエアコンの開発

インバーターでコンプレッサーを壊すところから始まり、
夏休みを返上し裸で試作と確認を繰り返す。

世界初の家庭用インバーターエアコンの開発

1970年代前半の冷暖房タイプのエアコンは暖房能力が不十分で、室内ユニットに補助ヒーターを組み込むタイプが主流であった。

一方、1973(昭和48)年の石油危機による省エネの高まりから、エネルギーロスを低減するため、オン・オフ運転で行う室温調整に換えて、圧縮機を連続で能力制御できる機能が要求されていた。既にアイデアとしてインバーター(周波数変換装置)を使えばその実現の可能性は予想されていたが、当時は高価で大きいという欠点がありエアコンへの搭載は困難と考えられていた。そこで、当社は最新鋭の大電力トランジスターの利用やマイクロコンピューター制御による「正弦波近似パルス幅変調方式」を採用し、従来のインバーターの1/6という大幅な小形・軽量化を実現して、世界で始めて業務用インバーターエアコンを1980(昭和55)年12月に発売した。

この業務用インバーター技術を家庭用インバーターエアコンに応用すれば必要に応じて能力を上げられるとの期待から、1981(昭和56)年1月に開発がスタートした。最大の課題はインバーター(圧縮機の回転を早くしたり遅くしたりする電気回路)の価格と大きさであった。また、それまでは一定の回転数で回ればよかったエアコンの心臓部である圧縮機がインバーターの指令によって遅くなったり速くなったりするので、どこに異常が生じるか全くわかっていなかった。

したがってまずは圧縮機を壊すことから始めたようなものだった。それは、第1に回転数を上げると圧縮機の機構部の潤滑油が過剰に流れ出し、逆に回転数を下げると潤滑不良が発生した。第2には吐出弁がみな折れてしまった。ローラーの回転が上がると弁の衝突の度合いが激しくなるためである。同じ理由でベーンが摩耗してしまうという故障も見つかった。第3には「キーン」という異常音が発生した。次々と出てくる課題を一つずつ解決していった。家庭用エアコンは交流100V仕様のため、いったん交流200Vに変換して圧縮機に供給する倍電圧整流方式を採用した。小型化のためのジャイアントトランジスター(圧縮機とインバターを結ぶ回路をコンピューター制御する重要な部品)の開発は半導体事業部との共同で行った。

圧縮機とインバーターのめどが立ったのは1981(昭和56)年8月末で、インバーターは業務用のものに比べ1/3の大きさとなり家庭用エアコンの室外機の圧縮機上部に配置することができ、価格は2/5にまで改善できていた。一方、冷凍サイクルの開発も困難にぶち当たり、工場修理のための停電の悪条件の中、夏休みを返上して、裸で試作と性能確認を繰り返し行い、同年9月にようやく完成を見た。

1981(昭和56)年11月12日の報道発表の反響はすさまじく、エアコン技術史に大きな革命を起こしたとして1984(昭和59)年に(財)新技術開発財団から「市村産業賞」を受賞、2008(平成20)年には(社)電気学会から第一回「でんきの礎」に登録された。また、2020年には、電気・電子学会IEEEから「IEEEマイルストーン」に認定された。

  • インバーター回路

    インバーター回路

  • (一社)電気学会「でんきの礎」受賞

    (一社)電気学会「でんきの礎」受賞

日本初のMRI装置

試行錯誤を繰り返し、作り上げたMRI装置。慈恵医大病院に納入した1号機は、世界初の商用機。

日本初のMRI装置

人体を切らずに病気を診断したいという医者の夢は、1895(明治28)年、ドイツのW.C.レントゲンによって発見されたX線により人体の透過像が得られて、初めて実現した。また、透過像でなく実際に切断したように体内を見てみたいという願いも、1972(昭和47)年に英国のG.N.ハンスフィールドによって開発されたX線CT装置からコンピューターで再構成する手法により輪切り像(断層像)が得られ、より精密な画像診断が可能となった。

しかしX線では人体の柔らかい組織の識別が難しく、放射線被曝の問題もあるため、より安全に人体の詳細な組織画像を得るため、それまで化学分析などに使用していた核磁気共鳴(NMR)技術により、体内の水分についての画像を得る方法が、米国のラウターバーらにより1970(昭和45)年に考案された。この功績により2003(平成15)年、英国のマンスフィールドと共にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

その後、研究成果を基に各社がMRI装置の開発を始め、当社では1979(昭和54)年から東京大学物性研究所安岡研究室と、小型磁石を使った基礎的な研究を開始した。磁石が小さいため、近くの八百屋で買ったレンコンや、オクラ、プチトマトを試料に、断面像を得ることから始めた。植物は断面が容易に見られるので便利だが、測定は手作りでデータを紙テープに記録しオフラインで計算機にかけ再構成を行った。

1980(昭和55)年秋にはMRI装置開発プロジェクトチームが発足、基礎研究から装置開発に移行した。当時、人体の検査装置は空芯の常電導磁石を使ったものしかなく、1981(昭和56)年に全身用常電導磁石をドイツから購入し、那須工場でMRI装置を試作した。試作した装置を1982(昭和57)年に大井町の東芝病院に据え付けて、初めての臨床研究とMRI装置の治験を進めた。当初、撮像の条件が十分に分らず、メンバーが被検体となって試行錯誤を繰り返し、撮像条件を決めていった。

そして当社の治験結果を基に厚生省から薬事認可を得て、1983(昭和58)年5月に慈恵医大病院に1号機を納入した。これが厚生省から認可を受け、商品として販売した日本初のMRI装置であった。米国では海外各社の臨床研究用MRI装置が稼働していたが、商用機としての認可は米国FDA(食品医薬品局)から取得していないことが判明し、日本初の商用機は世界初の商用機になった。

その後、MRI装置の技術開発が急速に進み、現在では常電導磁石を使った低磁場の装置より画像が鮮明で高速撮影ができる高磁場超電導MRI装置や、中磁場で開放的なオープンMRI装置が多く使われている。

  • オクラの断層像

    オクラの断層像

  • 東芝病院での試作機臨床試験

    東芝病院での試作機臨床試験

世界初インバーター制御高速ギヤレス
エレベーターの開発

高速エレベーターの“快適な乗り心地”を実現するには
インバーター制御が不可欠だった。

世界初インバーター制御高速ギヤレスエレベーターの開発

当社は、1966(昭和41)年に昇降機の製造販売を開始し、翌年に当社初の中低速エレベーターを河合楽器前橋営業所に納入した。その後、1970(昭和45)年に直流電動機を巻き上げ機に使用したワードレオナード制御高速エレベーターを当社1号機として第17森ビルに納入した。これらの高速エレベーターは、高速で移動しながら快適性を保持するため、エレベーターの起動時から着床に至るまで極めて振動を小さく、かつ正確に着床させる高度な技術が要求される。この高度な制御は、それぞれの直流電動機ごとに三相誘導電動機で駆動する直流発電機を設け、直流電動機に加える電圧を変化させて巻き上げ機を制御するワードレオナード制御を用いたが、設備費が極めて高くなるだけでなく、大きな設備スペースが必要とされた。

これらの問題に対処しつつ、高速エレベーターの“優れた乗り心地”と“静粛さ”を実現するため、減速機を使用しないギヤレス駆動の巻き上げ電動機を開発した。これには半導体電力変換素子(サイリスター)を用いたサイリスター(静止)レオナード方式を採用し、1980(昭和55)年には当社初の静止レオナード制御高速ギヤレスエレベーターを新宿第一生命ビルに、1984(昭和59)年には超高速ギヤレスエレベーターを東芝本社ビルに納入した。

しかし、直流電動機を制御するサイリスター(静止)レオナード方式は、力率改善に大きな電源設備容量が必要とされ、電源のひずみが大きくなるなどの問題があった。これらの課題を解決するため、省エネルギーの流れで急速に進歩したインバーター技術と交流誘導電動機を高精度に制御するベクトル制御技術を開発した。1983(昭和58)年に巻き上げ機にかご型誘導電動機を採用し、インバーターで可変電圧可変周波数制御を行うインバーター制御高速ギヤレスエレベーターを世界で初めて完成させた。

このエレベーターでは最高速度でも誘導電動機としては数Hzの回転なので、その回転を高精度で検出できるブラシレスレゾルバーを採用し、インバーター制御にあわせてすべり周波数制御形ベクトル制御を行うことによって、停止制御を含む安定的トルク制御および巻き上げ機を超徴速から最高速度まで自由自在に制御できる方法を確立した。1985(昭和60)年このインバーター制御高速ギヤレスエレベーター1号機を東邦瓦斯総合技術研究所に納入した。さらに、インバーター制御に使用される大電力半導体素子(サイリスター)の分野でもさまざまな改良が行われ、1980年代の後半にはスイッチング性能を大幅に改善したIGBTの採用で、電動機から発生する磁気騒音を低減できたため、フィルター回路などが不要となり、システムの小型化を図ることができた。大電流を数kHzで制御する回路に、高速プロセッサーや専用のゲートアレーを採用し、小型・高集積化した高性能全デジタル制御装置を可能にした。現在、高速エレベーターはインバーター制御ギヤレス駆動方式が世界の主流となっている。

  • ACGL(インバーター制御高速エレベーター)初号機 東邦ガス総合技術研究所(愛知県東海市)1985年3月

    ACGL(インバーター制御高速エレベーター)初号機
    東邦ガス総合技術研究所(愛知県東海市)1985年3月

世界最大の空気冷却水力発電機・ベネズエラの
グリⅡ発電所

1978年(昭和53)に初号機が日本の工場で完成。
現地で組立・据付・調整後に詳細な性能試験が行われ、営業運転が開始されたのは6年後の1984年(昭和59)であった。

世界最大の空気冷却水力発電機・ベネズエラのグリⅡ発電所

世界には、日本では考えられないほどの大河川がたくさんあり、その水力資源を開発する場合、経済性の点から水力発電機を出来る限り大容量化することが要求される。大容量の水力発電機の計画を検討するに当っては、発電機の損失熱を冷却する冷却方式ひとつを取ってみても、製作コストや保守コストなどを含め、空気冷却発電機で対応出来るか、または直接水冷却発電機にすべきかなど、メーカーと客先がそれぞれの立場で重大な判断を迫られる。 このグリⅡ発電所の水力発電機は最大容量が805MVAという巨大な発電機で、かつ10台という大きなプロジェクトであった。その入札が発表されたとき、単独ではリスクが大きいため数社がグループを組んで応札することとなった。

当社は、日本3社(東芝、日立、三菱)と西独(シーメンス社)よりなる日本西独グループのリーダーとして、過去の実績が豊富な空気冷却案を提案した。これに対して、競合する欧米グループは直接水冷却案を提案した。客先は、この両案を比較検討して、コスト的にも性能的にも有利な空気冷却案を採用することに決定したが、リスク軽減のため5台ずつ日本西独グループとカナダグループの2グループに分割発注した。

これを受けて日本西独グループでは、発電機本体は垂直分業で製作することとし、5台のうち2台(初号機と最終号機)をリーダーの東芝が担当。他の日本2社と西独1社が各1台ずつ担当し、スラスト軸受、上部軸受周り、励磁装置、空気冷却機、ブレーキ・ジャッキなどの部品は水平分業とし、部品ごとの担当各社が5台分を纏めて製作した。

なお、本体が垂直分業であっても、客先の運転・点検・保守・補修の都合(部品の互換性など)を考慮して、あたかも1社で製作したような発電機をつくる必要があった。そのために日本3社で共同設計を行なってマスターショップ図面を作成し、これを忠実に守って各社が製造図面をつくるという手順で、コスト・性能・信頼性の点からも最適になるように万全を期してこの世界最大容量機を設計製造した。

定格は、極数64、容量700 MVA(60deg定格),805 MVA(過負荷定格)、回転速度112.5回転/分、電圧18 kV、周波数60Hz、力率0.9である。その大きさは、コンクリート風道内径19.3m、カップリングから風道までの高さ14m、回転子の外径と高さはそれぞれ 約13.6 mと4mという巨大なもので、重量的にも、固定子740トン、回転子1200トン、総合計2440トン、スラスト軸受荷重は2667トンという巨大な発電機である。

全ての部品は工場において部品毎の試験検査のみを行なって出荷され、他社製作分を含めて全ての部品は現地で組立・据付・調整が行なわれた。現地据付完了後、詳細な性能試験によって全ての保証値が満たされていることを確認した後、営業運転に入った。写真は現地ベネズエラのグリⅡ発電所・水力発電機の組立完成後の回転子を示す。

1台目は1978年(昭和53)に工場完成し、現地ではダムの完成が遅れたため予定より2年遅くなったが、上記の組立~試験の手順を踏んで、1984年(昭和59)に営業運転が開始された。空気冷却発電機としては現在でも世界最大容量機である。

  • グリⅡ水力発電所の工場完成時の固定子枠

    グリⅡ水力発電所の工場完成時の固定子枠

世界初の1MビットDRAM

「世界トップのDRAMメーカー」という積年の夢を実現。
「半導体の東芝」を世界にアピールした功労者。

世界初の1MビットDRAM

DRAMの誕生は1971(昭和46)年に米国インテル社が1,024(1K)ビットDRAMを開発・製品化した時である。その後、ほぼ3年で4倍というペースの大容量化と新しい市場の開拓でDRAMは発展を続けてきた。

当社におけるDRAMの歴史は、1973(昭和48)年に1KビットDRAMを開発した時に始まる。ICの最新技術であるPチャネルシリコンゲート技術を駆使した3トランジスタ/セル方式であった。その後、4Kビット、16Kビット...256Kビットと開発・生産を行ってきたが、当社が半導体メーカーとして確かな地位を築いたのは1MビットDRAMの時代に入ってからである。

1981(昭和56)年末、日本経済新聞に「東芝、DRAM事業から撤退」と報道された。これを契機にDRAM事業への再挑戦が始まった。1982(昭和57)年から開始された“W作戦”の重点戦略として1MビットDRAMの開発がスタートした。その後、シリコンサイクルの波に動揺しない一貫した設備投資による土台作りから、技術者の重点配分による技術力強化、従来実績のあるNMOS品と高速動作・低消費電力という性能向上を狙うCMOS品の並行開発、および最終的なCMOS品の選択へと進み、1984(昭和59)年秋に世界に先駆けて開発に成功した。

翌1985(昭和60)年2月にニューヨークで開催された半導体技術の国際会議(ISSCC)で発表し、同時に大手ユーザーへのサンプル出荷を行い、製品開発段階で他社に大きく先行した。さらに、生産面では予定より早い1985(昭和60)年10月に月産1万個の規模を達成し、長年の夢だったDRAMにおいて世界トップメーカーに躍り出た。1MビットDRAMは、当社の技術を世界的レベルにまで高め、当社全体でもヒット商品の一つとなった。

当社の半導体事業の中で、売上、利益規模、国際化への広がり、知名度アップなど、広い面で1MビットDRAMほど大きな貢献をした製品はないといっても過言ではない。4MビットDRAMでも、2世代制覇へ向けて全社一丸となって開発を進めた。競合他社と激しい競争を繰り広げたが、当社は依然として優位に立ち、1989(平成元)年には他社に先駆けてサンプル出荷を始め、大手ユーザーの認定をいち早く取得した。続く16MビットDRAMでも1990(平成2)年にサンプル出荷を始めた。一方、生産面でも主力ラインとするために、大分工場に多額の設備投資を行い生産体制を着々と整えていった。また、1993(平成5)年にはメモリーの主力工場として四日市工場を建設し、生産をスタートさせた。

  • 1MビットDRAM拡大図

    1MビットDRAM拡大図

  • 当時の量産工場(大分工場)

    当時の量産工場(大分工場)

世界初のノンラッチアップIGBT

絶縁ゲート・バイポーラートランジスター(IGBT)の開発中に
逆転の発想でラッチアップ(素子破壊)を防いだ。

世界初のノンラッチアップIGBT

パワー半導体素子は電力変換素子として広範囲な応用分野でエレクトロニクスを支える柱の一つである。当社は、大電力ゲートターンオフサイリスター(GTO)の開発に1970年代初めに着手したが、その後実用化を阻んでいた原因がターンオフ時の電流集中であることを突き止め、これを回避する素子を開発し、1977(昭和52)年に1.3kV-600A素子を製品化した。さらに1979(昭和54)年に、大阪市交通局向けにGTOサイリスターを使用した日本初の電車用VVVFインバーターを納入した。その後、電鉄用だけでなく産業用交流モーター可変速制御や大電力インバーター電源の実用化時代を開いた。1970年代後半には、大電力サイリスターを直接光トリガーする研究にも着手し、1981(昭和56)年に高出力LEDを光源とする素子を製品化した。

1980年代前半は、ジャイアントトランジスター(GTR)やゲートターンオフサイリスター(GTO)の出現によってインバーター技術が著しく進歩し、家庭用のインバーター・エアコンも登場した。さらに、エレベーターや電車などモーター駆動に代表される電力変換装置の電力スイッチング素子は、ますます高性能・高信頼化が求められた。特にスイッチング速度は、装置の低騒音化、精度向上、小型化の要求から、可聴周波数を超える領域までの動作が求められた。従来、高速スイッチング素子としては、MOSFETがあるが、大電流、高耐圧化が困難で、AC200V程度の小容量装置への適用に限定されていた。

この頃、世界中のメーカーが新デバイスの開発を競っており、1982(昭和57)年に米国GE社から縦型NチャンネルMOSのドレイン側にP層が付加されドレイン層が伝導変調されるIGBT(Insulated Gate Bipolar Transistor)構造が発表された。しかしGE社のIGBT構造は寄生サイリスターを内蔵しており、そのラッチアップのために寄生 サイリ スター がオンになってしまい大電流は切れない構造上の問題で実用化は困難であった。その頃、当社の総合研究所(現:研究開発センター)では、このGE社のIGBT構造がバイポーラGTRを置き換えられる有望な素子であることに着目し研究を始めた。早速、2次元のデバイスシミュレーターで計算し、その結果と比較したところ、当時パワーMOSで主流となっていたメッシュ構造のパターンをやめ、単純なストライプパターンのマスクを描くと、思いがけずラッチアップ防止の有力技術の発見につながった。さらに、MOS部の飽和電流を素子がラッチアップする電流以下に設定することを思いついた。これによって初めてノンラッチアップ構造のIGBTが大電流を切ることができる実用的な素子であることを実証でき、量産化へとつながった。1984(昭和59)年、当社は新規素子構造を採用した破壊に強いノンラッチアップ構造のIGBTを開発し、半導体国際会議(IEDM)で発表するとともに、翌年の1985(昭和60)年に製品を発表した。世界に先駆けて開発したことによってIR-100、大河内記念技術賞を受賞するとともに、2010(平成22)年には(一社)電気学会より「でんきの礎」でも顕彰された。

  • 大河内記念技術賞メダル(1990年)

    大河内記念技術賞メダル(1990年)

  • 第3回電気技術顕彰「でんきの礎」受賞(2010年)

    第3回電気技術顕彰「でんきの礎」受賞(2010年)

世界初のラップトップPC

技術を結集し、携帯性・小型化・省電力化を追求。
ラップトップPC開発のけん引者として市場を創造。

世界初のラップトップPC

パーソナルコンピューター(PC)は1970年中頃から組み立てキットやホビー向けとして徐々に拡大し、1980年代にビジネス用として急成長してきた。その中でも米国IBM社が1981(昭和56)年に発売した“IBM-PC”は本格的ビジネスPCとして業界標準としての地位を固め、世界を席巻していた。小型機・OA機器へと事業拡大を図っていた当社は1979(昭和54)年に日本語ワードプロセッサー“JW-10”を発売し、1985(昭和60)年に“RUPO”を発売して、事業として成功を収めていたが、PC事業では後塵(こうじん)を拝していた。独自仕様のデスクトップPCでは差別化をしても業界標準機との互換性がなく市場に受け入れられないからである。まさに当時、当社のPC事業は赤字続きでこのままでは事業継続が難しいという崖っぷちに立たされていた。

そのような当社のPC事業に残された唯一の選択肢は世の中にないイノベーティブなPCの開発であった。「業界標準機と完全互換性を持ち、小型・軽量化と省電力化を追求し、持ち運べるサイズまで小型化したPCなら必ず売れる。日本語ワードプロセッサー開発で培った小型化技術も生きる。」こんなアイデアで1984(昭和59)年4月にラップトップPC開発に着手した。その仕様とスケジュールはボトムアップでなく推進責任者が決め、開発者たちに指示が与えられた。

開発者たちにとって最初は不可能とも思えたPC開発だったが、多くの困難な壁を克服し何とか開発できた背景には、青梅事業所の技術力の他に小型化のためのキー部品のほとんどが社内で共同開発できたことがある。3.5型FDD、大型LCD、そして半導体技術などである。デスクトップに比べ重さは実に1/7の4.1kgにまで小型化できた。

1985(昭和60)年4月、世界初のラップトップPC“T1100”を最初に欧州で販売した。米国ではPC事業は撤退しており、日本ではNEC98の牙城であり、これとは互換性がない。T1100は革新的商品とはいえ幾つかの課題もあった。FDDは当時主流の5型でなく3.5型であり、値段も高い(当時レートで50万円強)。販売は時期尚早と疑問視する人も少なくなかった。しかし当時欧州PC責任者はラップトップへの将来性を信じ積極的に販売した。大手ソフトハウスや代理店、顧客に対し近い将来はデスクトップにとって代わると説得し、1年間で1万台の販売目標を達成した。この記録は当時の東芝PC事業にとっては驚異的な数字であった。

T1100の欧州での実績から、翌年よりラップトップPCを米国と日本でも販売開始することになった。T1100を“T1100Plus”に強化し、新たに上位機種として1986(昭和61)年に“T3100(”日本語版“J-3100”)を開発した。T3100にはプラズマ表示やHDDなど新たな最新技術を採用し、発売直後から「The King of Laptop」と称賛され、さまざまな賞を総なめした。

その後も当社のPC事業は継続的技術革新によりポータブルPC市場をリードし続け、部品業界にも大きな貢献をしてきた。これらの新技術に対し、1989(平成元)年には大河内記念財団より大河内生産記念賞を受けた。

  • 世界初のA4ノートブックPC(DynaBook J-3100SS 001)

    世界初のA4ノートブックPC
    (DynaBook J-3100SS 001)

  • T3100

    T3100

日本初の量産化された超電導マグネット

液体ヘリウムの極低温容器の断熱技術の工夫や
漏洩磁束を極小化して量産化を実現。

日本初の量産化された超電導マグネット

医療用に開発されたMRI(Magnetic Resonance Imaging)システムは、磁気共鳴現象を利用して人体の断層画像を撮影する技術である。MRIの実用化には、コンピューター画像処理技術と超電導マグネットの2つがキーテクノロジーとして寄与している。MRI用超電導マグネットについては、大空間に強磁場を発生させ、診察対象となる領域に100万分の1(ppm)オーダーの高精度な磁場均一性を実現するための高度なコイルの製作技術を開発した。また、病院に設置するために、漏洩磁束を極小化する高度な磁気シールド技術が求められた。

このほか、極低温容器の断熱技術の工夫や小型冷凍機の搭載により、液体ヘリウムも半年以上にわたって補充を必要としないようにした。さらに、電源と切り離した状態でも磁場減衰をほとんどゼロとするために、超電導の低抵抗接続(10-12Ω)の実現や永久電流スイッチを開発した。このような周辺技術の開発と統合により、1985(昭和60)年にMRI用超電導マグネットを実現した。

当社の京浜事業所は、現在の東芝メディカルシステム社の依頼を受け、磁束密度が0.5T(テスラ)と1.5Tという強磁界のMRI用超電導マグネットを業界に先駆けて市場に投入した。しかし、1985(昭和60)年のプラザ合意に始まる円高と、1990年代初頭の日米貿易摩擦を受けて、アメリカ製品の導入促進政策の実施など市場環境の急激な変化があり、コストダウンが急務の課題となった。この対応のため、当社は、設計改善や調達部品のコストダウン、流し組立による省力化などを実施した。現在、MRIは、全世界で年間3,000台以上の製造が行われており、身近な医療診断装置となっている。また最近は性能も飛躍的に向上し、短時間で鮮明な診断画像が得られるようになった。

これと同時に、単結晶引き上げ用の超電導マグネットも開発した。半導体は、純度の高い単結晶のシリコンウェハー上にサブミクロンの加工をして作られる。シリコン単結晶の製造には、多結晶シリコンを石英製のるつぼに入れ、加熱溶融して、種結晶から単結晶を成長させる方法がとられている。シリコン単結晶の大口径化が進むにつれて、るつぼ内でのシリコン融液の対流が大きくなって、単結晶の品質に影響を及ぼすという問題が生じてきた。これに対処するため、1980(昭和55)年ごろから、シリコン融液に静磁界を加えることで対流を抑える方法について研究が始まり、この静磁界を発生させるため超電導マグネットが使われることになった。ここで必要な中心の磁界の強さ(磁束密度)は0.4~0.5T程度であるが、ユーザーの使い勝手や周辺設備との協調性を考慮して、容器を「コの字」形としてコンパクトにし、コイル含浸用のエポキシ樹脂を高熱伝導性のものに改良するなど、設計上・製造上の様々な工夫を凝らした。

その結果、1990年代の初頭には8インチ(200mm口径)の単結晶製造ラインへ適用されるようになり、2000(平成12)年の初頭には、この技術により12インチ(300mm口径)の単結晶の製造も可能となった。

  • 流し組立によるMRIの量産製造

    流し組立によるMRIの量産製造

  • 12インチシリコン単結晶引き上げ用 超電導マグネット

    12インチシリコン単結晶引き上げ用 超電導マグネット

世界初の光トリガーサイリスター実系系統試験に成功

絶縁ゲート電源不要の光トリガーサイリスターは、
パワーエレクトロニクスのキーデバイス。

SL1500GX21の後継品

写真はSL1500GX21の後継品

パワー半導体素子とは、電源やインバーターに使われるダイオードやトランジスターなどの半導体素子で、交流と直流の変換や電圧の昇降、周波数の変換などに使われる。当時の重電事業本部システム事業部の強い要請を受け、1972(昭和47)年に総合研究所(現:研究開発センター)の電子部品研究所で大電力GTO(ゲート制御でターンオフ可能なサイリスター)の本格的な開発が始まった。GTOについては既に1960年代に論文が発表され、1970年代初めには米国のGE、ウェスチングハウス、RCA各社が開発したものの期待した性能が出ずに縮小・撤退という状況で、国内でも多数の会社が取り組んだが、ことごとく開発に失敗していた。当社でも半導体事業本部で小型GTOを開発していたが、歩留まりが上がらずに終息する方針であった。このため、慎重論が支配的であったが、この大電力のGTOを利用した産業用、電鉄用の電力変換器で巻き返しを図りたいシステム事業部の強い要請があり、社長命令で事業部がスポンサーとなって新しいクリーンルームを設置し、半導体事業本部と協力して開発をスタートした。応用範囲の拡大を考えると、GTOのターンオフ電流を増やすことが最大の開発課題であった。1976(昭和51)年に、耐圧と電流定格の世界記録を大幅に更新し、1978(昭和53)年には耐圧を倍増した2,500V-600AのGTOを発表した。その後、4,500V-3,000AのGTOは新幹線のぞみや欧州高速鉄道の機関車にも採用され当社のパワーエレクトロニクス関連事業の発展に大きく貢献した。その頃、開発が進められた光トリガーサイリスターは、発光ダイオード(LED)でトリガーできるサイリスターである。電気でトリガーする従来のサイリスターに比べ、機器の小型化につながり、部品点数も削減できるので信頼性も向上する。周波数変換所や直流送電で利用される超高圧サイリスターバルブを完全に光トリガー化したいというシステム事業部の強い要請を受けて、1978(昭和53)年から開発がスタートした。既に4,000V-1,500Aの電気トリガーサイリスターは製品化されており、同じ電気特性を維持しつつ100倍近い光ゲート感度で汎用LEDをトリガーに使える大電力光トリガーサイリスターの開発は冒険であった。それだけに、90個もの4,000V-1,500Aの光トリガーサイリスターを直列接続したサイリスターバルブが、電源開発(株)佐久間周波数変換所で1983(昭和58)年12月から1985(昭和60)年2月までの実系統試験に世界で初めて成功した時の関係者の感激は大きかった。この素子を用いて直流送電ができることが実証されたのである。その一方で、大電力光トリガーサイリスター4,000V素子開発が一段落した1981(昭和56)年から、高出力LEDと高耐圧化の研究が始まった。

十数種類もの光ゲート構造の試作を経て、その課題を見事に解決する新型多段増幅光ゲート構造の開発に成功し、1982(昭和57)年に世界最大容量の8,000V-1,200A素子を東芝総合技術展に出展し、1984(昭和59)年には過電圧保護機能を集積化した8,000V素子を発表した。4,000V-1,500A素子は変電所などに設置される無効電力補償装置に広く使われ、6,000V-2,500A素子は、周波数変換所や直流送電に多く採用され、さらには、鉄鋼所のモータコントロール用コンバーターなどの産業用にも使われた。1990(平成2)年には半導体事業本部で6,000V-2,500A過電圧保護機能付き光トリガーサイリスターが開発された。

  • 世界最大級の光トリガーサイリスター(SL-2500JX21)

    世界最大級の光トリガーサイリスター(SL-2500JX21)

世界初の赤色半導体レーザー室温連続発振

世界初の赤色レーザー室温連続発振を達成、
翌年には光ディスクに応用された横モード制御構造を世界に先駆けて開発。

世界初の赤色半導体レーザー室温連続発振

1960(昭和35)年、米国の物理学者セオドア・メイマンが世界初のルビーレーザーを発明し、1962(昭和37)年に半導体レーザーのパルス発振が報告された。さらに1970(昭和45)年には、GaAlAs赤外半導体レーザーによる室温連続発振が達成されている。これら最先端の技術開発に刺激され、当社の総合研究所(現:研究開発センター)でも半導体レーザーの研究が行われ、1973(昭和48)年に世界で初めて半導体レーザーによるホログラムの記録・再生に成功した。

その後、光通信分野への半導体レーザーの応用を目指し、通産省(当時)の大型プロジェクト「光応用計測制御システムの研究開発」に参画、発振波長の異なるレーザーを同一基板に集積する集積波長半導体レーザーの研究を行った。このプロジェクトでは、波長多重(WDM)光通信用光源として1983(昭和58)年に5波長の集積を行い、世界的に高い評価を受けた。

一方、光ディスクの大容量化を目指し、当社は独自にInGaAlP赤色半導体レーザーの開発を進めていた。従来の音楽CD用レーザーにはGaAlAs赤外半導体レーザーが光源として広く使われていたが、光ディスク用には可視光線領域で発振する半導体レーザーが必要だった。そのため、まずレーザー半導体結晶成長技術に取り組み、有機金属気相成長(MetalOrganic Chemical Vapor Deposition)法と呼ばれる新しい結晶成長技術を使って、1985(昭和60)年に世界で初めて赤色レーザー室温連続発振に成功した。次に、デバイス作製プロセス技術では、光記録用光源の半導体レーザーに求められる出射光を微小スポットに絞る横モード制御構造を開発し、光ディスク用光源として使用できる高品質ビームを1986(昭和61)年に実現した。さらに、この横モード制御構造を実現した同年11月に、赤色半導体レーザーを用いたハイビジョン光ディスクの再生にも成功し、新聞発表が行われた。もちろん世界で初めて赤色レーザーを使用した光ディスクである。その後、1995(平成7)年12月に当社の主導した赤色レーザーを用いたDVD規格が発表され、翌1996(平成8)年には世界初のDVD製品化が実現した。

もう一つの応用分野は、バーコードリーダーである。既に赤色のヘリウム・ネオン(He-Ne)ガスレーザーが光源として使われていたが、同じ波長帯で小型・低消費電力の半導体レーザーに置き換えれば、POS(Point ofSales)システムの大きな市場が見込めた。He-Neガスレーザーの消費電力は10W~数十W、半導体レーザーは0.1W程度であった。CD用のGaAlAs赤外半導体レーザー(波長780nm)では青いバーコードに対してJIS規格の反射率コントラストを満たすことができなかったが、InGaAlP赤色半導体レーザーの波長(670nm)はHe-Neレーザーの波長(633nm)にも近く、JIS規格を満たすことができた。このInGaAlP赤色半導体レーザーは特に米国において大きなPOS市場を開拓し、当社は一時期約90%以上を占めるトップシェアを獲得した。

  • 横モード制御赤色レーザーの断面構造とデバイスシミュレーション例

    横モード制御赤色レーザーの断面構造とデバイスシミュレーション例

  • 赤色レーザーダイオード

    赤色レーザーダイオード

世界初の超々臨界圧大容量蒸気タービン

歴史的に偉大な技術や重大な出来事として
技術年表「電力技術の一世紀」の紙面を飾った。

世界初の超々臨界圧大容量蒸気タービン

電力技術に関する国際的機関誌PEi(Power Engineering INTERNATIONAL)の2010(平成22)年5月号はこの1世紀(1910年~2010年)における世界の電力技術の発展に関して特集を組み、歴史的に偉大な約50の技術や重大な出来事を年表の形式で紹介した。その中で1989(平成元)年に当社が世界初の超々臨界圧タービンを開発したことが写真付きで取り上げられている。超々臨界圧タービンとは水蒸気の臨界点圧力22.1MPaより大幅に高い31.1MPaの主蒸気圧力で作動する蒸気タービンを意味し、超臨界圧タービンと呼ばれていた24.2MPaの主蒸気圧力で作動する従来のタービンと区別するために付けられた呼称である。当時、世の中は二度のオイルショックを経験し、発電事業に対し高効率化の要望を急速に強めていた。しかし火力発電プラントにおいては熱効率向上に必須の高温高圧化技術が、米国でのパイロット機の不調から信頼性面に不安を持たれ、世界的に高温高圧化の趨勢(すうせい)は十数年間にわたり進展を止めていた。その技術的停滞を打破する発端となったのが、当社のタービンの技術である。

このタービンの主な仕様は中部電力川越LNG火力発電所1号機および2号機向け、周波数60Hz、定格出力700MW、2段再熱31.1MPa、566/566/566℃、TC4F-33.5、4車室の蒸気タービンである。この蒸気条件によってタービンプラントの発電端熱効率は従来同等機の39.7%から41.7%へと相対的に5%向上した。

設計方針として中圧タービンと低圧タービンに関しては従来機の技術をそのまま応用し、開発の焦点を超高圧・高圧タービンに集中した。特に注力した研究開発は三つあり、一つ目は回転部のみならず全ての静止部品に新たな12Cr鋼を採用し、高圧化に伴う熱応力の増加を防いだことである。二つ目は超高圧化によって懸念された「スチームホワール現象」と呼ばれるローターの不安定軸振動に対し、新たな試験装置を用いてローター系の特性を事前に解明し、その発生を防止したことである。三つ目は全部品の中で最も過酷な条件にさらされる初段動翼について徹底した数値解析と実体回転試験を行い、事前に信頼性の確認を行ったことが挙げられる。この蒸気タービンは運転開始から今日まで20年間にわたり期待通りの順調な稼働を続けている。1991(平成3)年にはその業績をたたえられ、日本機械学会技術賞や英国機械学会論文賞なども授与された。ただLNG火力に対しては、その後に超々臨界圧蒸気タービンよりもさらに高効率を発揮するコンバインドサイクルが普及し、蒸気タービンは主役の座をガスタービンに譲った。しかし世界の電力界で今なお大きな比重を占める石炭火力発電や石油火力発電に関しては、このタービンで培った技術はそのまま蒸気条件のさらなる高温化も促し、日本や中国を始めとする世界の省エネルギー化や温暖化防止に地道な貢献を続けている。当社の蒸気タービンが現在の世界における蒸気タービン技術の潮流を最初に作り出したことが歴史的に改めて認識され、国際的評価を受けたと考えられる。

  • 運転中の超々臨界圧大容量蒸気タービン発電機

    運転中の超々臨界圧大容量蒸気タービン発電機

世界初の可変速揚水発電システム

水車発電機の理想を実現した可変速発電機の仕組みが、
60年の時を経て世界初の可変速揚水発電システムに生まれ変わった。

世界初の可変速揚水発電システム

一般の水力発電所では、発電機は系統周波数(東日本では50Hz、西日本では60Hz)に対応した一定の回転数で運転している。しかし発電機を駆動している水車は、その特性上、落差や出力に応じて回転数を変えた方が効率の良い運転ができる。例えば、落差や出力に応じて発電機の回転速度を変えることができれば、さらに水車の効率を向上させ発電量を増やすことができる。

当社は、この水車発電機の理想を実現した日本初の可変速発電機(750kVA)を、金沢市電気局(現:北陸電力)吉野第二発電所に納入し、1930(昭和5)年に運転を開始した。当時としては非常に高度な技術と性能を持った可変速発電機であったが、その後適用が拡大することはなかった。

戦後経済が高度成長期に入って電力需要は大きく伸長してきたが、それと共に昼夜の電力需要の格差が著しく増大し、かつ変動も大きくなってきた。系統周波数を一定に保ち電力を安定供給するには、変動するピーク需要に合わせて発電量を迅速に調整し、需要と供給をバランスさせる必要があった。水力発電は流量を調節することによって出力を迅速に変えることができるのでこの目的にかなっているが、日本では大きいピーク需要に見合うような大容量の水力発電所を新しく建設できる地点が、1960(昭和35)年以降、ほとんどなくなってしまった。

そこで、これに代わって揚水発電所が建設されるようになった。一般の水力発電所が河川の自然流量を用いて発電しているのに対し、揚水発電所では、原子力などの夜間の余剰電力を用いて下ダムの水を上ダムにくみ上げて貯蔵し、この水を利用して昼間にピーク発電を行う。そのため河川流量に関係なく大容量の発電所を建設することができる。この揚水発電所は、一般の水力発電所と同様、出力を迅速に変えることができるため、電力の安定供給と系統周波数の維持に不可欠の役割を果たしている。ところが、これまでの揚水発電システムでは一定の回転数で運転されるため、揚水運転時にポンプの特性上、電気入力を変えることができない。もし回転数を変化させることによって電気入力を自由に変えることができれば、需給の微調整が可能となり、夜間の揚水運転時の系統周波数調整も可能になる。

このことに着目して東京電力と当社は共同研究を重ね、1990(平成2)年に矢木沢発電所において世界で初めて低周波交流二次励磁方式による可変速発電電動機を用いた揚水発電システムを完成させた。

この発電電動機の原理は60年前に製作された吉野第二発電所の発電機と同じであるが、低周波交流励磁電流は大容量サイリスター素子を用いた静止型周波数変換器であるサイクロコンバーターから供給するようになっている。この可変速揚水発電ユニットは、高速高性能のデジタル制御装置によって、従来の水力発電機に比べて極めて高速な入出力制御が可能なほか、系統の電力動揺の抑制といったさらに複雑で高度な制御も行っている。

  • 金沢市電気局 吉野第二発電所 750kVA可変速発電機

    金沢市電気局
    吉野第二発電所
    750kVA可変速発電機

  • 電源開発 奥清津第二発電所 可変速発電電動機ローター

    電源開発
    奥清津第二発電所
    可変速発電電動機ローター

世界初のオーバードライブ技術搭載の液晶テレビ

液晶ディスプレイの残像を低減して鮮明化するオーバードライブ技術は、
世界中の液晶テレビに採用された。

量産された2003年製

写真は量産された2003年製

液晶テレビは、今や世界のテレビ市場の主役となっている。その実用化においては、画質を大幅に向上させた液晶用オーバードライブ技術の貢献が非常に大きい。現在、ほとんどすべての液晶テレビにこの技術が搭載され新たな市場を創造した。

1988(昭和63)年、総合研究所(現:研究開発センター)に材料、デバイス、回路、システムすべての専門部隊を集めた壁掛けテレビ開発プロジェクトが発足し、液晶テレビ開発に着手した。1980年代後半になり、OA用の液晶ディスプレイがようやく世の中に出回り始めたころである。オーバードライブ技術とは、画像の変化を強調する液晶用映像処理技術である。従来、輝度がステップ状に変化する動画像が表示されると、液晶の応答速度が遅いため、輝度の急峻な変化に追従できず、被写体が動いた後方の残像のために画像がぼやける。この残像を相殺するように事前にその変化を強調(オーバードライブ)するのである。当時、液晶の残像の原因は最も暗い輝度と最も明るい輝度の2値の切り替えの応答速度が遅いことにあり、輝度の変化量が少ない中間調の切り替え応答速度は問題ではないと考えられていた。

開発担当者はオーバードライブのアイデアを以前から持っていたが、液晶を駆動するドライバICの最大の電圧は決まっており、最も暗い輝度と最も明るい輝度の2値の切り替えをオーバードライブしようとすると電圧の上限値を超えてしまう。上限を超える電圧ではオーバードライブはできないので、残像の解消には液晶材料自体を高速化するしかない、と考えていた。しかし、あるとき試しにすべての階調レベルで応答特性を精密に測定してみると、中間調の応答速度の方が遅く、かつ、とくに中間調に、液晶が動くことで発生する容量変化が大きく、それが残像を発生させるという、いままでの常識を覆す結果が得られた。つまり、液晶の残像の大きな要因は、中間調の切り替えの遅さによるものだったのである。「中間調であればオーバードライブを適用できる!」。早速、この技術を用いて液晶テレビを試作し、1990(平成2)年のエレクトロニクスショー(現:シーテックジャパン)や1991(平成3)年の米国CES(Consumer ElectronicsShow)に出展した。すると、残像の少ない高画質の映像に対し、多くの来場者が「これが液晶なのか?」と驚いた。また、1992(平成4)年に技術内容を公表した際には、新聞にオーバードライブ技術による画質向上効果は「ブラウン管に匹敵する液晶」と紹介されるほどだった。実用化のための省メモリ化などの改良を経て、この技術は2002年頃から大型の液晶テレビに搭載されるようになり、今では他社製を含むほとんどすべての液晶テレビに搭載されるまでに広がった。液晶自体の応答速度は改善されてきているが、さらなる高画質化に向けて2倍、4倍と書き換え速度向上が必要になっていること、立体表示には少なくとも2倍の高速化が必要であることから、今でもオーバードライブは不可欠な技術である。

2004年には、オーバードライブ技術のパイオニアとしての当社の貢献度が高く評価され、ディスプレイ関連では世界最大の国際学会であるSID(Society for Information Display)からSpecial Recognition Awardを受賞した。さらに2007年には市村産業賞貢献賞、2009年には全国発明表彰恩賜発明賞をそれぞれ受賞した。

  • 全国発明表彰 恩賜発明賞

    全国発明表彰 恩賜発明賞

  • 市村産業賞貢献賞

    市村産業賞貢献賞

世界初のNAND型フラッシュメモリー

国産初の世界標準メモリとして採用。
独自の技術で大容量化を実現し、「市村産業賞本賞」を受賞する。

世界初のNAND型フラッシュメモリー

デジタル情報の記憶デバイスには、(1) 高速読み書き、(2) 不揮発性、(3) 低消費電力、(4) 低コストなどが求められ、従来はハードディスク(HDD)、フロッピーディスク(FDD)などの磁気メモリーが使われていた。一方、高速処理性能に優れ、パソコンなどのメインメモリーに使われているDRAMは、電源を切ると記憶が消える(揮発性)ため、外部記憶デバイスには適さず、また、従来の不揮発性メモリーでは、低価格化と大容量化が不十分であった。

当社は、1984(昭和59)年に次世代を担う新しいタイプの半導体メモリーとしてフラッシュメモリ(NOR型)を発明、世界に先駆けて実用化を果たした。その後、更なる大容量と低価格を実現させるNAND型フラッシュメモリーを発明し、これにHDDと互換性のあるデータ入出力方式(シリアルインタフェース方式)を備えて、ファイル応用に最適な半導体メモリーとして、世界に先駆けて実用化した。NAND型フラッシュメモリーは、当社が1987(昭和62)年に動作原理に関する発表を行いました。1989(平成元)年にはISSCCでチップ動作に関する発表を行い、ファイルストレージに独自の応用分野の開拓を行うとともに、国産で初めての世界標準メモリーとしてデファクトスタンダード化に成功した。このNAND型フラッシュメモリーは、デジタルスチルカメラ、シリコンオーディオプレーヤー用メモリーとして応用されるなど、デジタル家電の基幹部品として国内産業の喚起に大きく貢献したとして、2000(平成12)年4月、当社としては28年ぶりに財団法人新技術開発財団から市村産業賞本賞を受賞した。

1991(平成3)年には、従来のメモリープロトコルと全く違うシステムとして仕様を発表するとともに、米国IBM社とハードディスク置き換えのソリッドステートディスク開発のための戦略的提携を行い、16Mビット商品開発に着手した。1993(平成5)年に16MビットNAND型フラッシュメモリーを製品化し、岩手東芝エレクトロニクス株式会社(現 株式会社ジャパンセミコンダクター)での量産化と市場開拓を同時進行させ、本格的に新規ビジネスを開拓した。

1995(平成7)年になると、難航していた技術開発と量産化の諸問題が解決され、32Mビット製品もラインアップ化し、韓国の三星電子株式会社との共同開発も始まった。1996(平成8)年には16Mビットと32Mビット製品を小型カードに搭載してスマートメディアと命名し、小型フラッシュカードとして提案した。この年は、富士写真フイルム㈱、オリンパス光学工業㈱、㈱セガ・エンタープライゼズ、東京エレクトロン(株)などとフォーラムを設立してデジタルカメラ産業の立ち上げを行った。NAND型フラッシュメモリーの開発も軌道に乗って、年ごとに2倍の大容量化を実現できる技術が確立し、シリコンオーディオ市場が動き出した。

こうして当社が提案したNAND型フラッシュメモリーは、国産初の世界標準メモリーとして規格化され、独自の技術で大容量化を実現、市場創出を行い、高収益事業となった。

  • NAND型フラッシュメモリー拡大図

    NAND型フラッシュメモリー拡大図

  • 当時の量産工場(現在の岩手東芝エレクトロニクス(株))

    当時の量産工場(現在の岩手東芝エレクトロニクス(株))

世界最大規模11MW燃料電池発電プラント

燃料電池発電プラントは、発電効率の良さで高評価を獲得。
固体高分子形燃料電池へと進化を遂げる。

世界最大規模11MW燃料電池発電プラント

第1次、第2次オイルショック以降、高い発電効率と優れた環境性を持つ「リン酸形燃料電池」は通商産業省ムーンライト計画に取り上げられ、水力、火力、原子力に次ぐ第4の発電方式として注目を集めるようになった。

当社では1960(昭和35)年代初めから基礎的な研究に取り組んでいたこともあり、1982(昭和57)年には、ムーンライト計画の火力代替用(加圧型)開発プロジェクトに参画し、1987(昭和62)年に中部電力知多第二火力発電所内に1MWプラントを設置、運転研究を実施した。当社は電力会社向けに新たな事業を開拓するため、アポロやスペースシャトルなどの宇宙船での実績があり、世界最先端の燃料電池技術を持つ米国UTC社と、当社の発電プラント技術の融合によって、1985(昭和60)年4月に合弁会社(IFC社)を設立した。

11MWリン酸形燃料電池プラントは、1991(平成3)年に東京電力の五井火力発電所に納入し、1997(平成9)年まで運転し、高い発電効率と良好な環境特性が実証された。

一方、1990(平成2)年にはオンサイト用専門会社ONSI社をIFC社と合弁で設立し、1991(平成3)年から当社が担当で製作した改質器、電気制御機器を組み込んだオンサイト用200kWリン酸形燃料電池の準商用機(PC25A)を日本以外にも、北米など世界各地に56台出荷、商用機の目標としていた4万時間の運転を達成した。さらに、コスト低減とコンパクト化に取り組んだPC25Cを1996(平成8)年より商用機として発売した。1997(平成9)年には財団法人新エネルギー財団主催の新エネ大賞(21世紀型新エネルギー機器等表彰)を受賞した。国内では病院、ホテル、ビール工場、テーマパーク、上下水道などでコージェネレーションとして運用されている。最近では、2005(平成17)年3月に開幕した愛知万博「愛・地球博」の会場内にも200kWが4台設置され、長久手会場の日本政府館に電力を供給していた。

また、1992(平成4)年からのNEDOニューサンシャイン計画に参画し、固体高分子形燃料電池(PEFC)の研究開発を開始し、1995(平成7)年には1kW級電池スタックを完成させた。ついでシステム開発にも取り組み、2000(平成12)年には、1kW級家庭用PEFCコージェネレーションシステムを開発し、2002(平成14)年から新エネルギー財団(NEF)の固体高分子形燃料電池システム実証等研究にも参画し、実用化に向けた開発を進めている。

  • 50kw燃料電池発電実験プラント

    50kw燃料電池発電実験プラント

  • 燃料電池本体

    燃料電池本体

世界初の550kV 1点切りガス遮断器

変電所の大容量化と縮小化の切り札となる消弧室の開発実用化は、
都心への大容量送電を可能にした。

世界初の550kV 1点切りガス遮断器

戦後の経済成長に合わせて当社は開閉装置の高電圧化・大電流化を進めてきたが、1970(昭和45)年頃から気中絶縁機器に代わって、絶縁性能に優れたSF6ガスを用いたガス遮断器(GCB)やガス絶縁開閉装置(GIS)を開発してきた。定格電圧の高い300kVや550kVの遮断器は、初期には複数の遮断点を直列接続して高電圧化に対応してきたが、さらなるGIS機器の縮小化が課題となり、遮断点数の半減に向けて工場と研究所が一体となって開発に取り組んできた。

従来二つの遮断点で構成していた遮断器を1点で構成するには、遮断性能を2倍に向上させることが必要で、その遮断性能検証を行うためには大規模で特殊な試験設備が必要となる。そこで世界最大級の短絡試験設備を重電技術研究所内に設け、この短絡試験設備をフル活用することにより、当社の独自開発で300kV 1点切りの遮断性能を達成した。そして、この新しい遮断技術を適用した世界初の300kV 1点切りガス遮断器を1982(昭和57)年に東京電力新京葉変電所に納入した。2点切り遮断器を1点切りにすることで、GISの高さを低くすることが可能となり、300kV地下変電所を構成することが可能となった。これは電源の立地が困難な都心部に大量の電力を効率よく供給する上で非常に意義のある技術である。また、当初50kAであった遮断電流も63kAまで容量を増した。これには当社の固有技術であり、電流遮断時に発生するアークの熱エネルギーを電流遮断に活用するハイブリッドパッファー消弧方式が大きく寄与した。

300kV 1点切りガス遮断器の技術を適用することで、これまで4点切りであった550kVGCBを2点切りにすることが可能となり、その1号機を1984(昭和59)年に九州電力豊前変電所に納入した。この遮断器はGISにも適用され、主母線の三相一括化などのGISの技術革新ともあいまって、550kV 1点切りガス遮断機のコンパクト化に大きく寄与した。また系統容量増加に対応して短絡電流の63kA化や定格電流の8,000A化などを実現した。

550kV遮断器の1点切り化に際してはさらなる遮断性能の向上が必要となり、ハイブリッドパッファー方式に加えてデュアルモーション操作方式を開発した。これは従来の遮断器が接点の片側のみ動作させるのに対し、一つの操作機構で可動接点の駆動と同時に対向側の接点を逆向きに駆動するという画期的な構成となっている。これにより接点間の相対的な開閉速度を飛躍的に高めることが可能となり、1点切りGCBの実現に大きく貢献した。近年、他社でもデュアルモーション操作方式を実施する事例が増えており、当社の先見性を象徴する事例となっている。世界初の550kV 1点切り遮断器は1993(平成5)年に東京電力新筑波変電所に納入された。

550kV 1点切り遮断器はGISにも採用され、敷地面積の大幅な低減に寄与している。さらに、このGISは1998(平成10)年に世界初の550kV地下変電所用として東京電力新豊洲変電所に納入されている。この変電所は非常に注目度が高く、現在でも国内外から多くの専門家が見学に訪れている。

  • 東京電力新京葉変電所

    東京電力新京葉変電所

  • 200MVAと150MVA発電機 2台構成の短絡試験設備

    200MVAと150MVA発電機
    2台構成の短絡試験設備

世界初の大容量ガス絶縁変圧器

高気圧のSF6ガスを絶縁と冷却に用いて、
275kV-300MVAの大容量不燃変圧器を完成。

世界初の大容量ガス絶縁変圧器

絶縁油の代わりに不燃性のSF6ガスを用いた変圧器は日本では当社が1967(昭和42)年に初めて66kV-3,000kVAのものを第一生命地下の変電設備に納入した。SF6ガス絶縁化は絶縁性能の高さ、不燃という特性優位性から開閉装置ではより高電圧の機器にも迅速に展開されていったが、変圧器の場合は冷却能力が油より小さいため、なかなか大容量化は進まなかった。しかしながら都市部における地下変電所増設の需要とその安全性確保の観点から大容量ガス絶縁変圧器の開発が期待されていた。

大容量不燃性変圧器の開発は、米国で1980年代初めに300MVA級の開発実用化を図るとの計画が示されたが、米国政府の財政規模縮小で計画が中止された。日本では、米国での開発計画に触発されて1983(昭和58)年に本格化した。当時は、変圧器の大容量化にはSF6ガス単独では冷却能力が不十分と考え、冷却にフロロカーボン液を使用する案が考えられていた。当社は、GE社が手がけていた方式、すなわち巻線にアルミシートを、絶縁にPETフィルムを使用し、巻線内に金属製のパネル形冷却板を巻き込んで、その中にフロロカーボン液を流して直接巻線を冷やすセパレート式(絶縁はSF6ガス、冷却はフロロカーボン液にそれぞれ独立して依存する方式)冷却を採用して実用化を目指した。各社がそれぞれ異なる方式で開発を競い合ったが、最初に製品化に成功したのは当社で、1989(平成元)年に東京電力旭変電所向けに世界初の154kV-200MVA大容量ガス絶縁変圧器を完成した。続いて1990(平成2)年には、275kV-300MVAの変圧器を開発し、東京電力新坂戸変電所に納入した。

しかしながらこの変圧器は、巻線冷却のために冷却パネルを内蔵する特別な構造を必要とし、かつ冷却用のフロロカーボン液が非常に高価であることもあり、変圧器としてのコストが従来の油入の3倍近くなり、今後継続的に普及させていくことは困難と考えられた。そのためSF6ガスで直接冷却するための研究を並行して進めていた。最大の課題であるガス単独での冷却性能アップのために製品開発課と研究所とで開発チームを作り、ガス自体の冷却特性向上策、変圧器としてみたときの巻線内部の流れ方、流れを変える新しい構造の探究を続けた。その結果、ガス圧力の昇圧、高めの常用温度設定を可能にする高耐熱絶縁物の採用、大容量高圧ガスブロワの開発、および巻線内ガス流コントロールの詳細解析評価による巻線温度の均一化などの技術によって300MVA級の変圧器もSF6ガス単独で冷却可能とすることに成功し、1994(平成6)年に、東京電力東新宿変電所向け275kV-300MVA変圧器の全ガス大容量変圧器を製品化し、以降標準機種の一つとして販売を継続している。

当社では、同じ年に275kV-150MVAガス絶縁分路リアクトルも製品化し、東京電力葛南変電所に納入した。これによって、ガス絶縁変圧器と分路リアクトルが冷却のために特別なシステムを持たない形態で実現し、東京電力では、このガス絶縁機器が油入に代わって地下変電所向け機器の主流となっている。この方式は、日本国内の他の電力会社でも採用され、海外でも世界の都市部の安全な地下変電所構築のキーコンポーネントとして注目されている。

  • オーストラリアTRGヘイマーケット変電所向け345kV-400MVAガス冷却式絶縁変圧器

    オーストラリアTRGヘイマーケット変電所向け
    345kV-400MVAガス冷却式絶縁変圧器

世界初のクリーナーレスプロセス搭載のファクシミリ

コピー機、ファクシミリなどに用いられる究極の電子写真技術を開発、
レーザープリンターの小型化、高画質化、メンテナンスフリーを実現。

世界初のクリーナーレスプロセス搭載のファクシミリ

従来の電子写真は、トナー粒子とキャリアと呼ばれる磁性体粒子の二つの成分から構成される現像剤を用いていた。トナー粒子とキャリアの摩擦帯電でトナー粒子を所定の極性に帯電させ、マグネットローラーで感光体ドラムまで搬送し、感光体ドラム上に露光によって描かれた静電潜像を現像していた。キャリアは現像器の中で何度も再利用されるが、用紙に転写されなかった感光体ドラム上のトナー粒子はクリーニングブレードで除去され、廃トナーボックスに回収される。しかし、定期的なメンテナンスの必要があることが課題であった。またキャリアの表面はトナー粒子との撹拌で生じる微粉などで被覆されて劣化するため、キャリアの交換が必要であった。さらに、キャリアはマグネットローラーに磁力で保持されているので、ローラーからキャリアとトナー粒子をはがすのは大変な作業であった。この作業を不要にしてメンテナンスフリーにするため、現像剤をトナー粒子だけの一成分にすることを目標に、新しい技術の開発に取り組んだ。

最初は、キャリアの持つ磁力搬送の機能をトナー粒子の機能として取り込んだ一成分磁性トナーに挑戦した。しかし、磁性トナー粒子を運ぶマグネットローラーが必要で小型化が難しいことや、カラー化が困難との判断で開発を断念した。その後、一成分で非磁性のトナー粒子にすれば良いと確信し、研究開発に着手した。その実現には、三つの困難な課題を克服しなければならなかった。一つめは、キャリアを使わずにどのようにトナー粒子を摩擦帯電させるか。二つめは、非磁性のトナー粒子を磁力の助けを借りずにどのように感光体ドラムに運ぶか。そして三つめは、高画質の画像を得るために、潜像電荷分布上にいかに忠実にトナー粒子を付着させるか、であった。

一つめの課題は、トナー粒子を現像ローラーと弾性ブレードで挟むことにした。トナー粒子が現像ローラー上で単層に近い薄さになると、十分に摩擦帯電が行われた。二つめの課題は、現像ローラーとトナー粒子間の摩擦係数が最大で、トナー粒子同士の摩擦係数が最小である材料を使えば解決できることがわかった。トナー粒子を十分に摩擦帯電し、なおかつ薄層にすると、鏡像力が働いて、現像ローラーから感光体ドラムに運べることが確認できた。三つめの課題は、現像ローラーと感光体ドラムの間を非接触でトナーを飛ばす非接触現像法を選択して製品化を進めたが、安定性や他社の特許に関わる問題が顕在化して断念せざるを得なくなった。結果的には、接触現像法を選択した。所定の摩擦帯電性と電気抵抗を有する導電性ゴムによる弾性現像ローラーの開発が、成功のポイントとなった。さらに、この接触型一成分非磁性現像を用いると電界強調効果によって、高画質現像と同時に現像電界によるクリーニングを実現できることも見いだした。開発を開始して十数年後の1995(平成7)年に、多機能レーザーファクシミリを製品化することができた。

  • 開発した電子写真技術の構成図

    開発した電子写真技術の構成図

  • 接触型一成分非磁性現像と現像同時クリーニングの図

    接触型一成分非磁性現像と現像同時クリーニングの図

世界初のDVDプレーヤー

DVD規格統一化のリーダーとして活躍。
「火の見やぐら」は、スリムなDVDプレーヤーに姿を変える。

世界初のDVDプレーヤー

1996(平成8)年11月、当社は世界初のDVDプレーヤー「SD-3000」を発売した。DVDの開発プロジェクトがスタートしたのは1994(平成6)年で、当時はVHSタイプのビデオデッキが市場を占めていた。画質の優れたレーザーディスクも、カラオケでは一時代を築いたが、直径30cmの両面で映画1本分程度の記憶容量だった上、アナログ映像だった。

当社が提案したDVD(当時はSD)は映像も音声もデジタルで、CDと同じ12cmサイズに映画1本を収録できる上、高画質、高音質、多機能を実現するという画期的な規格だった。12cmディスクに映画などを長時間記録するには、ディスクそのものの高密度化と映像を圧縮するための技術(MPEG2)が不可欠であった。

幸い放送に応用できるMPEG2エンコーダーが開発され、さらにコンテンツを揃えるため、ハリウッドのタイム・ワーナー社と連携を図り、データ量をギリギリまで減らしながらハリウッドのプロに納得の得られる高画質レベルを探る、MPEG2の圧縮テストを繰り返した。

このほかにもハリウッドからもう2つの要求があった。それはディスクの価格(1タイトル20ドル以下)と、ハリウッド制作の映画を90%カバーするため、ディスクの片面を135分収録可能にすることだった。これらの実現に向けて製造性に優れ、さらに高密度化が実現可能な厚さ0.6mmのディスク2枚を貼り合わせ、CDと同じ1.2mm厚にする方法を提案した。

また、独自の方式を実証するため早速試作機の製作を行い、同時に米国ワーナーミュージックと東芝EMI(現:株式会社EMIミュージック・ジャパン)の協力を得てディスクの試作もスタートした。試作機はプリント基板を何枚も積み上げたもので「火の見やぐら」と呼ばれた。常に動作が安定していたわけではなかったが、圧倒的な「高画質」とドルビー5.1チャンネルサラウンドで、世界の映画会社、コンピューター会社、報道機関などに鮮烈な衝撃を与え、国内関連業界にもデモンストレーションを行った。全社一丸でDVD規格統一へ邁進(まいしん)する姿勢を強くアピールした。

当社によるDVDの規格統一化は、業界のコンセンサスを得て力強く前進した。その後も当社のリーダーシップのもと、各社のアイデアが付加されDVDフォーマットとしてまとめられ、極めてスリムなDVDプレーヤーの第一号機「SD-3000」として登場したのである。

2004(平成16)年、BSデジタル放送に続き、テレビの地上デジタル放送が始まった。本格的デジタルハイビジョン映像時代に対応する新世代光ディスクとして、東芝が提唱するAOD(アドバンスト・オプティカル・ディスク)も、DVDフォーラムの承認を得て歩き始めていた。

2020年9月、世界初の家庭用DVDプレーヤー(SD-3000)とDVD用MPEG-2デコーダLSI(TC81201F)が、国立科学博物館が選定する令和2年度の「重要科学技術史資料(愛称:未来技術遺産)」に登録された。

参考:東芝ニュースリリース
https://www.global.toshiba/jp/news/corporate/2020/09/pr1501.html

  • 試作機1号 火の見やぐら

    試作機1号 火の見やぐら

  • 試作機2号 ヴァンガード

    試作機2号 ヴァンガード

  • MPEG-2デコーダLSI(TC81201F)

    MPEG-2デコーダLSI(TC81201F)

世界初の改良型BWR(Advanced BWR)の
営業運転開始

最新技術を集大成した改良型BWRの開発から建設、
そして21世紀の主力軽水炉へ。

東京電力(株)殿 柏崎刈羽原子力発電所第6号機、7号機

東京電力(株)殿 柏崎刈羽原子力発電所第6号機、7号機

当社は、早くから次世代を担うABWR(Advanced BWR)の開発を目指し、電力共同研究の制度ができた1975(昭和50)年に電力会社とABWRの主要な機器である原子炉内蔵型再循環ポンプ(インターナルポンプ)の適用性研究を行い、ABWR開発の立ち上げに貢献した。その後、1978(昭和53)年に、当社、米国GE社、(株)日立製作所など、世界のBWRメーカーの国際協同設計チームによる概念設計をスタートした。さらに、電力会社との数多くの共同研究、国の支援などにより、開発試験及び基本設計を完了させた。これらを踏まえ、ABWRが東京電力(株)柏崎刈羽原子力発電所6、7号機に世界で初めて導入された。当社は、米国GE社、(株)日立製作所からなる3社の国際ジョイントベンチャーの代表者として初号機である6号機の建設を取り纏め、6号機は1996(平成8)年11月から、7号機は1997(平成9)年7月から営業運転を開始した。この後、国内での建設実績を積み重ねると共に、海外の電力会社から高い評価を受け、米国では、原子力安全規制委員会(NRC)から標準設計認証を取得している。

当社が、ABWR開発で貢献した主要な技術は次の通りである。

1. 系統の単純化による安全性向上では、炉心流量を制御するインターナルポンプを直接原子炉圧力容器内に設置している。これにより、従来BWRプラントに設置されていた、外部の再循環配管ループとジェットポンプの削除が可能となり外部配管破断が発生せず、原子炉の安全性向上を図ることができた。これにより非常用炉心冷却系の設備容量を削減できた。

2. 大容量化及び熱効率の向上大容量化により、発電単価を低減するため、電気出力は135万kW級とし、この大出力を効率よく達成するため、高効率52インチ最終段翼タービン、再熱サイクルなどを採用している。

3. 原子炉の出力制御装置として、通常時は電動駆動で低速、緊急時は水圧による高速挿入可能な改良型制御棒駆動機構(FMCRD)を採用した。これにより、制御棒の複数本同時操作によるプラント起動時間の短縮、駆動源の多様化による信頼性向上を達成している。

4. 鉄筋コンクリート製格納容器(RCCV)の採用により原子炉建屋と一体化した。鋼材料の削減及び構造の有効利用による経済性の向上、原子炉建屋とRCCVの同時施工による建設工程の短縮を図った。また、圧力容器、格納容器、原子炉建屋の重心位置を低くし、格納容器と原子炉建屋を一体構造として耐震性を向上させている。

5. デジタル計測・制御技術、光多重伝送技術など、最新のエレクトロニクス技術を全面的に採用し、中央監視制御盤―制御装置―現場機器間を光ネットワークで結んだ総合デジタルシステムを採用し、運転支援の強化を図った。

当社は今後も新技術を適用することでさらにABWRを進化させ、安全性、信頼性、経済性、運転性、保守性に優れたプラントを提供していく。

  • インターナルポンプ高温・高圧試験装置

    インターナルポンプ高温・高圧試験装置

  • RCCVの耐震実証試験

    RCCVの耐震実証試験

日本初のDDインバーター全自動洗濯機の開発

深夜でも騒音で気がねしない洗濯機を目指して。

日本初のDDインバーター全自動洗濯機の開発

当社は、1997(平成9)年に新開発のアウターローター方式DD(ダイレクトドライブ)モーターを採用して洗濯機の駆動機構を一変し、騒音と振動を飛躍的に低減させた全自動洗濯機の発売を開始した。

これまでは騒音による迷惑を考え、隣り近所に気がねして、多くの人が深夜や早朝を避けて洗濯していた。これは、特に働く主婦にとって悩みの種であり、一般の主婦にとっても、昼間の時間を有効に過ごすことへの妨げとなっていた。それまでも騒音を少なくすることについてはさまざまな努力がなされてきたが、従来技術の延長線上での改善ではほぼ限界に達し、何らかの発想の転換が必要になっていた。

当社では、従来の駆動機構が誘導モーターとベルト、ギアによる減速機構で構成されており、この減速機構と誘導モーターに大きな騒音の発生源があることに着目した。そこで、洗濯槽を直接駆動(ダイレクトドライブ)できる、音の静かなモーターと、このモーターを駆動・制御するインバーターを開発することにした。

洗濯機の減速機構をなくすためには、従来の約10倍の大トルクで、速度可変のモーターが必要になった。洗濯機に搭載可能なコンパクトなモーターにするため、平らな形状で外側をローター(回転子)とする方式のブラシレスDC(直流)インバーターモーターを採用することにした。ところが、ブラシレスDCモーターには原理的に、ローターのマグネットとステーター(固定子)の電磁石との間で発生する磁力の変動による騒音、いわゆる“コギング音”の問題があり、これを克服することが最大の課題となった。このため、電磁石の並び間隔の不均等化やマグネットの形状を太鼓状にするなど独自の工夫を重ね、磁力の変動を低減し、この問題を解決した。

さらに、洗濯物の種類に応じて、洗濯・すすぎ・脱水の各プロセスにおけるDDモーターの回転数を変化させるインバーター制御システムも開発した。ところが、このモーターでは、マグネットの磁束の波形と巻線に流れる電流の波形との違いによってトルク変動が生じ、これによる騒音も発生した。これを低減するには、巻線電流に対する正弦波通電制御が必要となり、ローターの回転位置を高精度に検出することが不可欠である。そこで、位置検出素子として従来の高価なエンコーダーに代わり、磁気センサーの出力で回転位置を推定する低価格な正弦波通電インバーターを開発した。

DDモーターの開発とともに、洗濯槽を直接回転させるシンプルな駆動機構を開発し、振動低減の新技術とあわせて“洗濯時は静かな公園並み”、“脱水時は図書館並み”と、画期的な静かさを実現した。同時にインバーターによってきめ細かな回転制御を行い、洗濯物に最適な水流を生み出している。

画期的に音の静かな洗濯機を可能にしたDDモーターは、他の機器にも幅広く応用できる可能性も高く、1998(平成10)年に生産技術において権威の高い大河内記念技術賞を受賞した。

  • DDモーターのイメージ

    DDモーターのイメージ

  • AW-B70VP取扱説明書

    AW-B70VP取扱説明書

世界初のGMRヘッド搭載HDDを実用化

GMRヘッドと垂直磁気記録の革新技術でHDDの記録密度・容量が飛躍的に向上。

世界初のGMRヘッド搭載HDDを実用化

HDDの記録密度向上には微細記録ビットの弱い磁界を読み取る高感度ヘッドが必須であり、磁界による大きな磁気抵抗効果変化率(MR比)の実現が重要である。1988(昭和63)年、ヨーロッパにおいて極薄のFeとCrを交互に積層した人工格子で桁違いの抵抗変化率が実現し、大きな注目を集めた。そこで当社は、VTRヘッドなどに取り組んでいた磁気ヘッド開発部隊を集結し、1992(平成4)年からGMR(巨大磁気抵抗効果)ヘッドの研究開発をスタートさせた。高MR比を競う方向性とは一線を画し、磁性層を2層に重ね、多層に比べてMR比は小さめだが線形応答が良好で再生信号検出に適したスピンバルブ構成に着目した。スピンバルブ構成に特有の磁化固着の特殊磁性層としてIrMn合金を、微弱磁界でもMR比が大きい結晶配向制御が可能なCoFe合金を見いだし、基本設計を固めた。

続いて、ヘッド試作実証フェーズに入った。設備が不十分であったが、当時の経営陣からの理解を受け、ステッパーなどの高額設備も導入し、開発を加速した。その結果、1997(平成9)年末には、3Gbit/in2の記録密度で世界初のGMRヘッド搭載HDDをプレスリリースすることができた。その後、パソコンだけでなく、携帯音楽プレーヤー、DVDプレーヤーなど多くの製品にHDDが搭載されるようになった。

これらの開発と並行して、より高い記録密度の達成を目指し、CoCr系金属磁性材料からなる垂直磁気異方性メディアを使った垂直記録の研究も開始された。垂直記録は原理的には優れているものの、従来の面内記録を飛躍的に上回る性能は実証できていなかった。転機は、熱揺らぎによる記録磁化の減衰という物理現象が、面内記録で顕著になり始めた時に訪れた。垂直記録では高密度ほど隣接磁化を強め合い、しかも磁性粒子の体積を大きくできるため、熱揺らぎに耐える余裕が非常に大きいのである。1994(平成6)年頃、熱揺らぎに耐える面内記録用メディアを目指して高磁気異方性CoPtO系磁性材料を開発していたことが、奇しくもこの時に威力を発揮した。この磁性粒子構造は、高い磁気異方性エネルギーを持つCoPt結晶を核に、その周りを酸素濃度の高い非結晶が取り囲むという当社独自のユニークな構成であった。酸化への危惧から金属膜ではタブーだった酸素の導入に踏み切った。その結果、理想的な垂直磁化特性が得られた。高濃度酸素を含む非晶質粒界は粒子間の交換結合を維持し、低温から高温まで磁気特性を維持できる優れた材料となった。1997(平成9)年には、磁性膜の性能を高める工夫の中から、Ruという優れた結晶成長制御の下地材料も発見した。CoPtO系磁性材料、酸化物による粒界分離、それらの成長の土台となるRu下地の組み合わせを発見し、垂直記録メディアとしての磁気特性と記録材料の設計コンセプトが明確になり、研究開発が加速した。2002(平成14)年1月の青梅工場の技術展でPCに実装した垂直記録HDDを世界で初めて報道陣に公開し、大きな反響を得た。2005(平成17)年に133Gbit/in2の世界最高の記録密度と優れた環境耐性を有する垂直記録HDDの製品を世界で初めて出荷し、磁気記録史上初となる記録方式大転換の先陣を切った。

  • 読み取りヘッドの概要

    読み取りヘッドの概要

  • 平坦化埋め込みによる磁極分離構造

    平坦化埋め込みによる磁極分離構造

世界初の高音質音声合成方式を実用化

音声符号化の発想により、音声データから自動学習する「閉ループ学習法」を
世界で初めて開発、世界一の音声合成方式を実現。

世界初の高音質音声合成方式を実用化

音声合成の研究は、音声認識と同様にコンピューターとのインタラクションを実現するヒューマン・インターフェース技術としてスタートした。1982(昭和57)年に音節単位の音声を文字に変換する音声ワープロを開発、銀行向け音声認識応答システムに適用された。その後、方式の改善とともに専用ハードウェア、ワークステーション上の音声合成ソフトを開発、1995(平成7)年にはパソコン上で動作する音声合成ソフトを製品化した。しかし、合成音の音質や自然性は「鼻声」「ロボット声」に代表されるように、とても満足できるものではなかった。合成音の音質は、波形生成のための素片辞書を大きくすれば改善する。しかし、辞書のサイズが増大し、小型のハードウェアでの実現が困難になる。また、素片辞書の作成は熟練した技術者による試行錯誤に頼っており、開発に時間がかかる問題もあった。これらの問題は、多くの研究機関で種々の解決策が検討されていたが決定打はなかった。

この状況が、1994(平成6)年に音声符号化の研究者が参画して一変した。音声合成の常識にとらわれず、ゼロから問題を洗い直したのである。既存の知識やノウハウに依らず、音声データから音声合成のパラメーターを自動学習することを基本方針に掲げ、「鼻声」「ロボット声」の原因分析に基づいて、音質の問題を学習データとの誤差という形で定式化することに成功した。続いて、その定式化に基づいて合成音の誤差を最小化する素片辞書の学習方式を世界で初めて開発、「閉ループ学習法」と命名した。本方式は、最小の素片で音質を最大化するものであり、省メモリーで人間並みの高音質・自然な合成音を実現し、音質と辞書サイズの二律背反問題を解決した。しかも、学習データを用意すれば自動的に短期間で合成辞書を作成でき、学習データに用いた人間の音声に近い合成音が作成できるという特徴を持つ。当時は、音声合成の開発には長年の知識とノウハウが必須で、技術者の耳に頼った試行錯誤が避けられないというのが常識であったので、「閉ループ学習法」は従来の常識を破る画期的な方式となった。

これらの研究成果を実用化するため、研究者自ら顧客を訪問して市場を開拓し、1998(平成10)年、音声合成ミドルウェアが大手自動車メーカーに採用された。その後、他のメーカーにも採用され、2006(平成18)年には国内カーナビ市場で94%のシェアを占めるまでになった。2002(平成14)年には英国と中国にも研究開発拠点を設立して多言語化を推進、欧米市場、中国市場でも東芝の音声合成および音声認識技術が採用されている。さらに、音声合成のコンテンツ作成応用など新たなサービスの開拓にも取り組んでいる。また、特定の話者や話し方を合成する話者適応・話調適応技術や感情的な音声を合成する感情音声合成技術の開発も進めており、応用分野の拡大に努めている。

  • 閉ループ学習法による音声合成

    閉ループ学習法による音声合成

#

#