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田中久重ものがたり

日本の近代技術史に名を刻む天才機械技術者「からくり儀右衛門」とは、東芝の創業者田中久重のこと。
彼のユーモアとアイディア、いたずら心は、奇天烈なモノから時代の最先端の製品までつくりあげました。
日本の近代の幕開けの時代、一生涯、あたらしいモノづくりへチャレンジし続けた発明家・技術者の生き方に迫ります。

6話 創業 FUNDATION

久重七十三歳。新たな大志を抱き、新首都・東京に向かう。

田中久重
田中久重:久留米市教育委員会所蔵

明治6年(1873年)、博多港。意気揚々と蒸気船に乗り込む久重の姿があった。向かうは、文明開化に沸くあたらしい首都・東京。
近代化を急ぐ明治政府にとって、西洋技術の国産化は緊急の課題。中でも急速に拡大する通信事業については優れた技術者が必要となっていた。
「田中久重を東京に呼び、日本の近代化にもう一働きしてもらおう−」
政府からの要請に、七十三歳の心は滾(たぎ)った。「文明開化の中心地で自らの技術を日本に、世界に問える」と。

高品質な通信機をたちまち開発。

創業当時(現在の中央区銀座8丁目)の工場
創業当時(現在の中央区銀座8丁目)の工場

久留米時代の従業員と共に上京した久重は、知人の寺の二階を工場に借りると、すぐさま電信機づくりに着手、ほどなくヘンリ電信機をつくり上げた。
久重のつくった電信機は、輸入品と違わぬ精巧さを持ち、操作性はそれ以上だった。政府からは追加注文が続々と舞い込んだ。

だが久重は浮かれなかった。からくり儀右衛門の真骨頂は、先端技術を駆使しもっと人々の生活に役立つ、驚きに満ちた発明をすることにあったからだ。
その気概は「珍器製造所」という工場の名前にも見て取れた。

久重、銀座に新たに店舗開設。東芝の歴史、ここに始まる。

芝浦製作所
芝浦製作所:『図説 日本文化の歴史 第11巻明治』より写真引用

文明開化の中心で先端技術と文化を取り込み、生み出した新技術を世に問いたい−久重は上京後その思いを強くしていった。
その地は赤煉瓦の洋館が建ち並ぶあたらしい街銀座しかない」
明治8年(1875年)7月11日、久重は現在の東京・銀座8丁目に、あたらしい工場兼店舗を構える。店の傍らには「万般の機械考案の依頼に応ず」との看板が掲げられた。久重の技術者としての自負、飽くなき探究心が窺える。
このときをもって東芝の創業とされている。

八十歳を迎え、なお衰えを知らぬ探究心、創造力。

報時器
報時器:逓信総合博物館所蔵

掲げた看板に偽りはなかった。久重は求められるまま、興味の赴くままに、実にさまざまなものをつくり上げた。電気計器から木綿糸取機、羅針盤などのほか、天動説信者のための「視実等象儀」までつくっている。
明治11年(1878年)には、アメリカから輸入された電話機から推測し、独自に電話機をづくり出す。さらに同年には、日本全国に時報を伝える「報時器」を生み出した。
これらの機器はやがて到来するエレクトロニクス時代に先駆け、久重が日本の産業界に蒔いた大きな種であった。

からくり儀右衛門、永眠。その情熱と探究心は東芝DNAに。

田中製造所の広告
田中製造所の広告:国立科学博物館所蔵

永遠の発明少年、"からくり儀右衛門"こと田中久重は、明治14年(1881年)、満八十二歳でその生涯を閉じた。幕末から明治に至る動乱時代にあって、常に時代の先端を見すえ、人々を楽しませる発明を追い続けた充実の人生だった。
久重の遺志と事業は、二代目久重となる弟子の田中大吉が受け継ぐ。
大吉は久重が没した翌年、東京・芝浦に「田中製造所」を設立。久重の情熱と探究心のDNAはここにしっかり受け継がれた。
そしてそのDNAは今日の東芝の中に脈々と息づいている。<完>

参考/「田中近江大掾」「からくり儀右衛門-東芝創立者田中久重とその時代-」(ダイヤモンド社刊)

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