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田中久重ものがたり

日本の近代技術史に名を刻む天才機械技術者「からくり儀右衛門」とは、東芝の創業者田中久重のこと。
彼のユーモアとアイディア、いたずら心は、奇天烈なモノから時代の最先端の製品までつくりあげました。
日本の近代の幕開けの時代、一生涯、あたらしいモノづくりへチャレンジし続けた発明家・技術者の生き方に迫ります。

3話 興行 PERFORMANCE

久重少年のアイディアが、久留米の伝統文化を育てた。

久留米かすり
久留米かすり:(財)久留米地域地場産業振興センター所蔵

十代半ばにして、からくり発明家としての才能を町中に広めた久重少年。
その、ユーモアたっぷりのアイディアと探究心に魅せられた一人が、"久留米かすり"の創始者・井上伝(いのうえでん)である。
「定番のかすりを素材とする工芸だからこそ、今までにない模様で差をつけたい」
そう切望する彼女に応え、久重は、従来の十字模様やあられ模様ではなく、花や鳥の美しい模様を織り上げた。
久留米の文化発展・継承にも一役買った久重少年は、いつしか"からくり儀右衛門"と称され、人々に親しまれるようになっていく。

からくり興行師・田中久重が、人々の驚きと感心を一身に集めた。

からくり興行の「引札」
からくり興行の「引札」: 国立科学博物館所蔵

二十代の久重は、からくり興行師として大坂・京都・江戸などを行脚した。
水力や重力、空気圧など、様々な力を利用した"からくり人形"が、彼の十八番。
童子盃台、文字書き人形、弓曳童子など、行く先々の人々をおおいに驚かせ、楽しませたのである。

からくり興行から実用品の製作・販売を始める。

弓射り(曳)童子
弓射り(曳)童子:久留米市教育委員会所蔵

天保時代(1830年〜)に入り、各地で藩政改革が行われるようになると、からくり興行も難しくなってきた。そこで久重は実用品の製作・販売を始めるために、天保8年(1834年)に大阪に移り住むことにした。
そこで売り出し、注目を集めたのが、真鍮製の"携帯用懐中燭台"。
「夜の帳簿つけに便利だ」という商人をはじめ、夜間医療の現場でも活躍する中で、"人々の役に立ち、かつあたらしいモノをづくり続ける"という彼のポリシーを、名実ともに、世に知らしめた。

逆境でも発明への情熱は衰えない。「無尽灯」を発明し、便利さを人々へ。

携帯用懐中燭台
携帯用懐中燭台:東芝科学館所蔵

天保8年(1837年)2月19日、大塩平八郎の乱(※1)が勃発。
一面焼け野原と化した逆境の中でも、久重は、さらに新たな発明に取り組んでいた。
「いつまでも消えない灯り」と、商人を中心に大人気を博した"無尽灯"が発明されたのも、ちょうどその頃である。
空気の圧力を利用し、菜種油が管をつたって灯心に昇る−その仕掛けは、長時間安定した灯りを供給し、商売や生活水準の向上に一役買ったのである。

  • ※1 大坂町奉行所元与力、大塩平八郎が、「救民」を掲げて挙兵した一揆事件。

久重のいたずら心をくすぐる舶来品"西洋時計"

無尽灯
無尽灯:東芝科学館(左)、
佐賀県立博物館(中央と右)所蔵

目につくものは、何でも発明に結び付けてしまう"発明の虫"は、南蛮貿易によってもたらされた"西洋時計"に興味を示した。
自らの興味のために、西洋の天文・数理を学ぶ決意を新たにした久重。
三両あれば一年暮らせると言われたその時代に、五十両の大金を握り締め、"天文暦学の総本山"京都梅小路・土御門家の門戸を叩くことを決意する。

弘化4年(1847年)、田中久重数えにして四十九歳。
鎖国の時代も終盤を迎え、西洋の文化の足音が、日本にも確実に近づいていた。

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